5日のNHK「ETV特集 安保とその時代B」で、60年安保闘争に関するさまざまな証言が流された。その中で、中曽根元首相の話もあった。
1960年の5月20日に、衆議院で日米安全保障条約を改定した新条約案が強行採決される。これからの一ヶ月間、安保闘争は空前の盛り上がりを見せた。
従来から安保反対運動に取り組んできた社会党や総評、共産党の共闘会議や、ブントなどのいわゆる新左翼系党派からなる全学連主流派の枠を越え、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになったのである。
地方でも、当時はまだ本土の各地にあった米軍基地に対する反対運動なども重なり、反安保闘争が次第に反政府(岸首相退陣)を求める動きに変わっていった。
岸サンは、「国会周辺は騒がしいが、私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる。」と語った。しかし、自民党内にもアイゼンハワー大統領訪日までに条約を性急に批准しようとする岸の姿勢に批判的な声が上がり始めた。
6月10日には羽田空港で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官のジェイムズ・ハガチー氏が、空港周辺に詰め掛けたデモ隊(共産党系の全学連・反主流派の学生は多かったといわれる)に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという「ハガチー事件」が発生した。
これに対して、全学連主流派の学生は、国会議事堂突入を計画する。6月15日に、警察官に棍棒の使用が許可され、ヤクザや右翼団体も交えて学生などのデモ隊を襲撃し、多くの重傷者を出した。
警官隊は、国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子さんが圧死するという事件が発生する。
国会前でのデモ活動に参加する人数はさらに膨れ上がった。
このように激しい抗議運動が続く中、岸首相は15日と18日に、防衛庁長官の赤城宗徳さんに対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。
当時、中曽根サンは科学技術庁長官で内閣の一員であった。番組のなかの証言によれば、中曽根サンは、何が何でもアイゼンハワー来日までに新条約を批准しようとする岸首相の姿勢はアメリカに媚を売ると見られ、好ましくないとかねてから進言していたと語っていた。
中曽根サンによれば、初め赤城防衛庁長官は岸の要請に反対していたものの、受け入れる方針だったという。
赤城防衛庁長官の秘書官だった水野清さん(その後衆議院議員)によれば、赤城長官と防衛庁幹部、そして自衛隊関係者との話し合いの結果、自衛隊側が「そんなことをすれば大変なことになる」と反対し、結局、赤城長官は岸サンの要請を拒絶したのだという。
6月17日には主要新聞各社が、「議会政治を守れ」としたスローガンを掲げた共同の社告を掲載した。七社共同宣言は、「流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であり」、「いかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」と書かれていた。
結局条約は、参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立した。岸首相はアイゼンハワー大統領の来日の中止をアメリカに申し入れ、混乱を収拾し、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。
自然成立前に岸首相を退陣に追い込み、条約の自然成立を阻止しようとした全学連主流派のもくろみは挫折した。
水野清さんの証言は、条約の強行採決のとき、議長室前に座り込む社会党議員をごぼう抜きにしたのは警察官と自民党議員の秘書だということになっていたが、中に見慣れない人物が多数いた。「今だから言うが」として、あれは右翼団体の人間に秘書バッチを付けた人たちだったということである。
中曽根サンの証言は、全体的にはウソはないだろうが、彼のアタマの中で後知恵でうまく合理化した話のように聞こえたけど・・・。まあお年をとってもアタマの働きは確かなことには、敬意を表しておきますけど・・・。
いずれにせよ、もしあのとき自衛隊が日本国民に発砲していたら、その後の日本人の自衛隊に対する見方はずいぶん変わっただろうし、さらに日米安保に対する考え方も違っていただろう、などと思うのである。
世界的に見れば、軍隊は自国を守るというよりは、自国民に発砲することが多いのである。89年の天安門事件での中国・人民解放軍を見ればわかる。日本でそういう意見が多いのは、沖縄ぐらいしかないのである。
いずれにせよ、60年安保闘争は運動を呼び掛けた陣営の意図を越えて、一般市民が自発的に参加し始めた。それは、東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸サンとその政治手法に対する反感の急激な高まりが背景にあった。
敗戦から15年しかたっていない時期で、ふたたび戦争に巻き込まれてはたまらないという気持ちが強かったというのは確かだろう。
岸内閣が退陣し池田勇人内閣が7月19日に成立すると、安保闘争は急激に退潮し、全学連主流派の学生は深い挫折感に苛まれた。
逆に、社会党関係者の方々の証言を聞くと、労組と政党がまず組合員を動員し、一般市民がその呼びかけに呼応するという「政治闘争」パターンの成功体験が、その後のこの政党の発展を阻害し、政策を地道に論じる気風を軽んじる悪弊を残したのかしらなどとも思うのである。
運動を呼び掛けた側の意図を越えて、一般市民が動き出しただけなのに、あのときに運動を呼び掛けた人々がその後、何かと言えば組織内で、あのときと同じやり方を繰り返そうという声が高まるようになったということでしょう。

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