Kirokuroの毒吐き空間

鳩山政権、こりゃ駄目だな。

 
不思議な生き物図鑑

生物名:ノーシャ
学名:キョーモタムラデタダボンヒロイ
生息地:神田神保町、秋葉原など
鳴き声:「ドートクドートク、チテキセージツ」
特徴:野Qの生き霊が野Qのマウスパッドに憑依して誕生した現代の妖怪。

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投稿者:野嵜
山本七平『論語の読み方』をやつと發掘。「葉公」云々の解釋は六十五ページにある。

>葉公が子路に、孔子とはどういう人なのかたずねた。子路は答えられなかった。そこで、孔子は言った。『なんで言わないのか、こう言えばいい。あの人のあり方は、情熱的になると食事を忘れ、学を楽しむと心配事はすべて忘れ、老いが迫っているのも気づかずにいる』と

で、山本七平はコメントして、「この絶えざる情熱は、静かなる孔子の一面であったろう。」と書いてゐる。(六十六ページ)

山本七平の本について松原氏は述べてゐるが、その際、山本の「情熱的」なる解釋を利用し、「怒り」と言換へる事には妥當性がある。
投稿者:野嵜
と言ふか、呉智英が「誤解釋」と言つたから松原氏のは誤解釋、と極附けるのには問題がある。
一往呉智英の本に當つておいて良かつた。慥かに「原典」に當るのは必要な事だ。

呉智英は、「孔子は温和だ」から「怒らない」に決つてゐて、そこで「怒る」と云ふ解釋をするのは誤、と言つてゐる。けれども、松原氏は「温和である人が時に怒る人であつても矛盾はない」と言つてゐるのだから、そこで「矛盾だ」と極附けて否定しようとしても無理。

となると、そもそも「論語」の解釋とは何なのか、と云ふ處から改めて檢討しなければならない。「論語」は、どの文章も前後關係が良く解らない斷片である。注釋者は、それらを自分の立場に基いて一貫した内容で解釋して見せた。性善説とか性惡説とかは注釋者の立場だし、それ以外の立場もあり得る。
で、さうした立場の一つとして、孔子を全面的に温和な人物と看做して解釋する方法があり得る。それで「發憤亡食」を學問的な發憤と解釋するのだが、この場合、他の項目も矛盾の無いやうに解釋しなければならない。「子温而q」を「おだやかではあるが、その中にもおのずからひきしまったところがある。」(諸橋)のやうに解釋するのはその爲。

宮崎市定は、その邊の事に無頓着だつたらしくて、「q」を「激しい気性」と解釋してゐる。

しかし、かうなると、孔子を、温和であり、同時に、激しい氣性の人物である、と解釋する方法は「あり得る」事になる。さうなると、呉智英が井上靖をばつさり斬つたやうな論法は必ずしも決定的に有效と云ふ事にはならなくなる。松原氏の立場もこの「温和にして激しい氣性」と云ふものに屬する、と看做すならば、呉智英の説に基いた否定は不可能になる。のみならず、松原氏の山本七平批判が、呉智英に向ふ事も「あり得る」と云ふ事になる。
投稿者:野嵜
本の山の中に埋もれてしまつたらしく山本七平の本が出て來なかつたので、山本が何う解釋してゐるかは確認出來なかつた。喜六郎に是非確認していただきたい。
投稿者:野嵜
漢文の解釋について反論する積りはなかったけれども、一往調べて見た。

諸橋轍次
>孔子という人物は、道を求めて未だ得ない場合には、心を奮い起こし、それに熱中して食事をも忘れるほどである。

宮崎市定
>学問の情熱に燃えた時には食事をも忘れ、

吉川幸次郎
>憤りを発する、すなわち人間の将来を憂えての心情の興奮がおこると、そのために食事さえも忘れる。

呉智英
>学問への意欲が湧き上がってくると食事も忘れ、

呉智英曰、「井上靖『孔子』では、人間の道に外れたことに対する怒りがこみ上げてくると食事も忘れる、となっている。初歩的な誤訳である。これでは、孔子は単なる癇癪持ちになってしまう。「楽しみて以て憂いを忘る」と続くことに思いを致さなければならない。」

呉智英はばつさりやつてゐるけれども、決定的な結論とも言へない。
井上靖の「誤譯」は恐らく吉川譯を踏襲したもの。吉川説がどの注を參照したのかは調べてゐないが、少くとも吉川説が「ある」のは事實。松原先生の解釋は、この吉川説に據つたやうだが、意圖的に「怒つた」を採用したもののやうに思はれる。

「子は温にしてqし。威あって猛からず。恭しくして安し。」について宮崎譯「孔子は柔和であると同時に激しい気性を持ち」云々。全體として「柔和」と云つたニュアンスを持つ文章だが、宮崎氏はこの「qし」を「激しい気性」と解釋してゐる。
投稿者:kirokuro
>梅沢氏
なんで松原信者って、自陣営にはこうも甘いのかねぇ(苦笑)。
松原氏の論語の誤訳はミスなどという軽い物じゃないのよ。
ちゃんと原典を参照してりゃ間違えるはずがない間違いを犯してるのね、松原氏は。
つまり松原氏は、「原典もロクに読まずに山本氏の論語解釈を批判している」というわけだ。
あなた方のお好きな言葉でいうところの「知的怠惰」ってやつなんじゃないの?
投稿者:梅沢
一つでもミスがあれば全てが駄目である、などと云ふ「理論」を松原先生がどこで仰つてゐるのですか。
人間は神様では無いのだから、それあミスくらゐするでせう。
例へば、誰でもその人生に於いて一つや二つ間違ひをやらかすに決まつてゐますが、それを以てその人の人生が全て駄目だと云へるわけがない。一体誰がさうした主張をしてゐるのですか?
松原先生は論敵の文章中に数多くの欠陥や迂闊を指摘してゐますが、松原先生と彼らの違ひは単に「ミスの多寡」と云ふ相対的な差ではありません。
西部西尾、両氏のやうに読む端からミスにぶつかる文章を書くのは明らかに「部分などドウデモヨイ」と云ふ態度を示してをり、松原先生は、さうした言論人にあるまじき怠惰を批判してゐるのです。
「一部分が駄目なら全体が駄目」と云ふのがどこからの出典か知りませんが、「部分を大事にしようとしない論者の文章は全体として駄目である」と云ふ謂でせう。
こんな事は常識で考へれば分かりさうなものですが、喜六郎氏は松原先生を否定するために無理矢理「一部にミスがあれば全てを否定して良い」と云ふ理論を松原先生及び「信奉者」が主張してゐる事にしようとしてゐますね。典型的な牽強付会です。
そのやうなトンデモ理論を「編み出した」のは松原先生ではなく喜六郎氏、あなたでせう。
投稿者:野嵜
「どうせ読まねーし」とか言つてゐたのに讀んでゐる訣ですね。「アンチ」の人はかうやつて嘘ばつかり言ふから困る。


>何故ならば、松原さんおよびその信奉者は「一部分が駄目なら全体が駄目」という理論?を持っているからです。

持つてゐません。「持っている」と言ふなら、その根據は何ですか。

「喜」印は、松原氏の持論を、戲畫的に歪めて、單純化し、圖式化して、自分に都合良くでつち上げてゐます。實際の松原氏の論法を見れば、「喜」印の言ふやうな「持論」なんてものが存在しない事は火を見るよりも明かです。

と言ふより、「喜」印自身、「理論?」等と、「?」を附けて言つてゐます。これは「喜」印自身が自分の要約に嘘が混じつてゐる事を自覺してゐる證據です。

事實を見てみませう。それだけで「喜」印の云ふ「理論?」が、松原氏の實踐してゐない「喜」印のでつち上げたいんちきである事が明かです。
松原氏は、證據を幾つも積上げる形で――詰り、部分的な誤を幾つも指摘する事で、西部や西尾の文章が惡い事を論じてゐます。たつた一つの文言を採上げて、そこから飛躍的に「全體が駄目」であるなんて結論を引出す、と云ふ事はしてゐません。

「論語の誤訳がひとつくらいあった所で、松原さんの著書の価値が減じるわけではない」と云ふ反論は「信者」でも出來ます。と言ふか、その當り前過ぎる反論を木村氏はしてゐます。

「喜」は、餘裕ぶつこいて木村氏の反論をいなす事で、自分が優位に立つてゐるかのやうに見せかけてゐるに過ぎません。

と言ふか、松原氏の「持論」と云ふ大嘘をもつともらしく見せかける爲に、「喜」印は松原氏の誤謬と云ふ眞實を持出してゐます。嘘をもつともらしく見せかけるには、眞實を織り交ぜて語ると云ふのが常道ですからね。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html
投稿者:kirokuro
要するに野嵜氏も松原さんの誤謬(論語の誤訳)をお認めになるわけですね。
で、松原正信奉者でなければ「論語の誤訳がひとつくらいあった所で、松原さんの著書の価値が減じるわけではない」という反論が出来るわけなんですが、松原正信奉者にはそれが出来ない。
何故ならば、松原さんおよびその信奉者は「一部分が駄目なら全体が駄目」という理論?を持っているからです。
この理論によれば、「一部分が駄目(論語の誤訳)なら全体(人間通になる読書術)が駄目」になり、さらには一部分が駄目(人間通になる読書術)なのだから全体(松原正そのもの)も駄目だということになります。
つまり松原さんは、自分が編み出した理論?で自分の首を絞めているということを自分は指摘しているわけです。
おわかりですか?
投稿者:野嵜
で、俺の「闇黒日記」にも長々と書いたから、暇なら見て呉れ。別に反論は期待してゐない。
まあ、反論するなら勝手にすればよろしいが、狂ったように「脊髄反射」して、頭に血を上らせて、「他人の誤を指摘する文章で誤記」なんて、おっちょこちょいな事をしないやうに。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html
投稿者:野嵜
で。一往俺のコメントも轉載しておく。

−−−
>上のコメントの「松原さんが「人間通になる読書。」は誤記です。

大体、最初から喜六郎が煽らずに具体的な指摘をしてゐれば、「たしかにさうですね、松原先生、間違つてをられますね」と俺も答へただらうに、一々喜六郎が煽るから、喜六郎が松原先生の誤を指摘して誤を書いたやうに松原先生も山本の間違ひを指摘して間違へたのだらうとか嫌みを言ひたくなるわけだ。

投稿 野嵜 | 2006.10.25 04:32 午後

−−−

喜六郎は前田氏の「ブログ」で、「2ちゃんねるに書込んだ」と報告しただけで、その内容を紹介してゐない。野嵜は喜六郎の書込みの内容を木村氏の「ブログ」を見て初めて知つた。
そんな訣だから、具體的に喜六郎の指摘に野嵜は何一つ反論してゐない事は明かであり、それなのに喜六郎が「素敵な批判をいただきました」「ありがたい批判?を頂きました。」等と書くのはをかしい。
事實誤認なら罪は輕いが、わざとやつてゐる節があり、喜六郎は大變に惡質であると言はざるを得ない。

ま、どうせこんな事を書いても喜六郎は「どうせ読まねーし」な。この種の「アンチ」に對して、言論は空しい。
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