喜六郎の小屋

福田恆存読者の代表を気取るほど、私の面の皮は厚くありません。

 
投稿者
メール

 
コメント
URL
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:野嵜
そもそも、喜六郎の場合、「泥仕合になると云ふ事態そのものが惡い」と云ふ發想を持つてゐる。それがをかしい。

喜六郎は、「松原氏は間違つた」と結論を性急に出したいのだ。

結論が喜六郎の場合、最初に決つてゐる。だから、それに贊成しない人間が出て來ると人格攻撃をして默らせようとし、事實を持出されれば「泥仕合」とレッテルを貼つて反論を封じてしまはうとする。

しかし、さうやつて濡れ衣を着せて、何うしようと言ふのか。

俺は、事實が知りたいだけであり、事實を確認する爲に手間をかけるのは別に惡い事ではないと信ずる。と言ふより、喜六郎にしても、例の「やっつける会会長」にしても、餘りにも論理を單純化――と言ふより、歪曲・圖式化が多過ぎるし、それに固執し過ぎる。何うしてそんなに事を單純に「してしまはうとする」のか。さうした方が相手を罵つて默らせるのに都合が良いからだらう。

性急に「間違ひ!」と斷定して、あとで「間違ひとは言切れない」事實が判明したのに、「泥仕合」と極附けて喜六郎は自分の結論を守らうとしてゐる。「信者」が「正しい」と「極附ける」事を罵る癖に、「アンチ」が「間違ひ」と極附けるのは肯定する、と云ふのが喜六郎のやり方だけれども、これでは「アンチ」の喜六郎、「信者」の單なる裏返しになつてしまふ。それで良いのか。「良い!」と言ふやうなら、喜六郎は處置なしである。
投稿者:野嵜
と言ふかさ、喜六郎、「泥仕合になる」なんて言つてゐるけれども、かうやつて「原典」に當れば事實は判明する。

喜六郎の場合、いちやもんは附けるけれども、案外、「原典」に當つて裏を取るとか、事實を確認するとかの勞をとる事がない。さう云ふ態度をとつてゐれば、それは泥仕合になるだらうが、それは喜六郎(の態度)が惡い。
投稿者:野嵜
今立讀みで見てきたけれども「發憤」について、新潮社の國語辭典では一番目に心の中に怒りを發する事の解説が出て來て、二番目に心を奮ひ立たせて勵む事の解説が出て來る。金田一京助の三省堂國語辭典も同樣。
吉田精一の旺文社標準國語辭典や長澤規矩也の三省堂明解漢和辭典では心を奮い起こすの意のみ載つてゐる。

松原氏が使用した辭書は新潮社の國語辭典。
投稿者:野嵜
「闇黒日記」に書いた文章を轉載。

「葉公」云々の解釋は六十五ページにある。

葉公が子路に、孔子とはどういう人なのかたずねた。子路は答えられなかった。そこで、孔子は言った。『なんで言わないのか、こう言えばいい。あの人のあり方は、情熱的になると食事を忘れ、学を楽しむと心配事はすべて忘れ、老いが迫っているのも気づかずにいる』と
で、山本七平はコメントして、「この絶えざる情熱は、静かなる孔子の一面であったろう。」と書いてゐる。六十六ページ
山本は、「学を楽しむと」を「心配事はすべて忘れ」だけにかかるやうに言つてゐる。だから、「情熱的になると食事を忘れ」の「情熱的になると」は「学」について「情熱的になると」の意味ではないと山本は解釋してゐる事になる。
喜六郎は、岩波なんかで出てゐる『論語』を「原典」と言つてゐる。しかし、今の話では、松原氏が批評對象としてゐる山本七平の『論語の読み方』が原典となる。その原典たる『論語の読み方』に「情熱的」なる解釋が「ある」訣だ。にもかかはらず山本はそれ以外の面ばかりを強調してゐる。それを松原氏は批判してゐる。この時、松原氏が山本の解釋を利用して山本の書き方を一面的と批判して、何か問題が「ある」だらうか。
「松原氏が誤つた」と喜六郎は詰つてゐるが、「誤」が「ある」としたらそれは山本七平に「ある」。
投稿者:野嵜
>私が何時山本の価値観と呉の価値観を一絡げにしたんだろうか?

「野嵜信奉者」の言ふ事だから「野嵜擁護」で「喜六郎批判」だと思ひ込んでゐる。

誰が何う讀んでもこれ、野嵜の言つてゐる事への反論だよ。
投稿者:野嵜
呉智英も「癇癪持ち」なんて言ひ方をしてゐますがね?

まあ、喜六郎が原典たる山本七平の本を讀まずにゐた事は致命傷だと思ひます。
投稿者:kirokuro
追加。
「鳩笛雑記帳」とかいう野嵜信奉者のブログに私への批判が載ってたので一部引用。
>といふことで、論語解釈に踏み込むのも呉
>さんへの言及もおまけでしかないやうだけ
>れど。それにしても、「山本七平の價値觀
>(と一致する呉智英の價値觀)」などと山本
>七平と一からげにするのはひどすぎる。

私が何時山本の価値観と呉の価値観を一絡げにしたんだろうか?
私を批判するんだったら、ちゃんと私の文章読んでからにしてほしいですね。
「ひどすぎる」はこっちの台詞じゃ。
投稿者:kirokuro
この問題でコメントするのは、これが最後。
これ以上議論しても、どうせ泥仕合にしかならないだろうから。

「情熱的」を「怒り」と読みかえることがなんで妥当なんだか自分には理解できない。だったら読みかえないで最初から「情熱的」って書けば良いだけの話だよね。
なんで松原氏はわざわざ誤解を招きかねない読みかえをしたんでしょうかねぇ?
不思議ですね。
投稿者:野嵜
で、喜六郎は、原典たる山本七平『論語の読み方』を持つてゐて、それを讀んで内容を知つてゐて、それで以て山本の解釋に「誤」が「ある」事を承知で、松原氏だけを批判したのですか?

ちよつとそれは非道いと思ひますが?

或は、原典たる山本七平『論語の読み方』を、喜六郎は持つてをらず、讀んでもゐなかつた?
投稿者:野嵜
山本七平『論語の読み方』をやつと發掘。「葉公」云々の解釋は六十五ページにある。

>葉公が子路に、孔子とはどういう人なのかたずねた。子路は答えられなかった。そこで、孔子は言った。『なんで言わないのか、こう言えばいい。あの人のあり方は、情熱的になると食事を忘れ、学を楽しむと心配事はすべて忘れ、老いが迫っているのも気づかずにいる』と

で、山本七平はコメントして、「この絶えざる情熱は、静かなる孔子の一面であったろう。」と書いてゐる。(六十六ページ)

山本七平の本について松原氏は述べてゐるが、その際、山本の「情熱的」なる解釋を利用し、「怒り」と言換へる事には妥當性がある。
1|2

QRコード

喜六郎の掲示板

喜六郎の電脳アーカイブス

喜六郎の電脳アーカイブス 喜六郎の電脳書庫です。

カレンダー

2008年
← September →
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
Copyright (C) GMO Tea Cup Communication, Inc. All Rights Reserved.