松原氏が「転向」についてどのような認識を持っているのかを、氏の文章を元に検証し見てみたい。
文章の添削は切りがないからもうやらないが、「若いときから、その趣旨で」云々は見え透いた嘘であり、幼稚園小學校時代は知らず、全共鬪時代の若き西部が大東亞戰爭を肯定的に「とらへ」てゐた筈は斷じて無い。清水幾太郎の「轉向」のまやかしと諄々しい辯解の嘘は嘗て福田恆存が剔抉したが、清水にせよ西部にせよ、なぜ轉向者は過去を疚しく思ふのか。疚しく思つてなぜ見え透いた嘘を吐くのか。政治と道徳とを腑分けしない知的怠惰のせゐである。先述したやうに、マルキシズムに行かれた事は若氣の至りの淺はかではあつても決して道徳的に恥づべき事ではない。批判する譯ではないから實名を擧げるが、嘗て私は林健太郎と同席した折、左傾した過去を疚しく思ふ事があるかと質した事がある。返事は簡單明瞭、「いいえ、一向に」であつた。天晴れだと私は思つた。
「保守とは何か」第四回より一部転載 |
「全共闘時代の西部氏が大東亜戦争を肯定的に捉えていた」はずは「断じてない」と何の根拠があって断言するのかよく分からない。
まぁそれは良いとして、この一文には松原氏が「転向」をどのように捉えているかがよく分かる。
松原氏は何のことはない、「
西部と清水(幾太郎)は過去を疚しく思ってるから駄目、林健太郎は疚しく思ってないから良い」と言ってるだけなのである。
要するに松原氏は、「転向」を「道徳的側面」からしか見ていないということである。
「転向」ってのは、そんな単純なものなのかなぁ?
「転向」を批判するのであれば、「転向」者の思想の内部まで検証しなければ決して意義のある批判にはならないだろう。
福田恆存だって、清水幾太郎を「転向を疚しく思ってるから駄目だ」などという理由で批判しているわけではないのだ。
で、最後に西部氏が「転向」を論われると怒る件について。
西部氏が怒るのは、「転向」を論う人の言葉に悪意を感じるからであって、必ずしも「転向」を疚しく思ってるからとは言えない。
一例を挙げれば、頭が禿げている人が自分の禿げを充分に認識していても、人から「禿げ」と嘲笑われれば、やはり頭に来るのである。
人間とは、そういうものだ。