今年、従妹からもらった年賀状に「あんまりお母さんを困らせないようにね。」と書かれてあった。私はそれを読んで、「そんな事言われなくてもわかってる!あなたに何がわかるの?!」って気持ちでいっぱいになった。好きで困らせてるわけではない。。。私だってわかってるよ。お母さんを自由にさせてあげたい。。。でも、心を病んでるとそんなに簡単な事ではないのよ。。。もう10年以上も私は母親を家に閉じ込めている。それを私が苦しんで来なかったとでも思っているの?私が全く家から出られなくなって、もう18年になる。家でのんびり自由気儘に暮らしてるとでも思ってるの?辛くない日の方が珍しいのよ。。。何が辛いの?って普通の人は思うのでしょうね。私にもわからないのよ。だから辛いの。何もないのに、尋常じゃない不安、恐怖、寂しさ、気持ちが重苦しくて、指も動かしたくない時もある。動かしたら気持ちが崩れさってしまいそうな恐怖って、わかるの?自分はいつか気が狂う。そう思いながら生きてる辛さがわかるの?毎日薬を飲まないと現状維持が出来ないから薬がないとやっていけない。どれだけの日々を泣いて過ごしていると思うの。。。。。
明るくなろう、辛いのは、薬を飲んでごまかせ!って今までやってきたの。何度も死のうとしたよ。胸に電流を流したり、ベランダから電線を首に巻いて飛び降りても死ねないんだから、どうしろって言うのよ。今まで、色々とあったのよ。。。お父さんが自覚のない妄想病で、いまだに時々鬱も痴呆も混ざってきてて、お父さんにいわれのない事で責めつづけられた弟が精神不安定になったり、一過性の神経症に妹もなったし、心の病気の事はなった者にしかわからないから、それをケアしてきたのは私よ。8人の兄弟なのに、誰も助けてはくれなかったのよ。それだけ心の病気は目に見えないから、誰も何も考えてはくれない。責められるだけなんだから!私は、8人兄弟なのに、なぜ父は私ばかりを殴ってきたのかがわからない。物心付いたときにはもう父は恐怖の対象でしかなかった。だから、今、思えば小学生の低学年の時に初めての不安発作が起こった。何もないのに、ひどい不安感にいきなり襲われて、その時、初めて自分は将来気が狂うんだ。その前に死ななきゃって思った。いつも熱ばかり出している子だったから、その発作が保健室のベッドでいつものように寝ている時に起こった事だったと、鮮明に記憶している。中学の時は、校外学習とか、修学旅行、全て仮病を使って行かなかった。遠くへ行く事が怖くて。高校へは、また仮病を使うのが嫌で(母に叱られるから)ただそれだけのために行かなかった。卒業したら、なるべく近い工場に勤めに行った。でも、そこでまた発作が起こった。不安感と離人感が3日間続いた。それでそこを辞めて、もっと近くに仕事をしに行った。でも、そこはボランティアで、お給料が無いので、お小遣いが欲しくて、夕方から夜までパン屋さんで働いた。そのころのスーパーでのレジとかで、時給が700円くらいだったのに、私は5年くらい働いていたのに、510円だった。月に多くて3万円のお給料だ。私の下には6人の弟と妹がいて、工場で働いてた時のお給料はみんなのお米代にかわっていったので、バイト代だけは、2万円を自由に使って、みすぼらしい服しか持っていなかったので、お出かけ用の服と靴を買って、後は、ずーっと欲しかったコミックスをたくさん買って、絵が好きだったので、24色の色鉛筆を買えた時は嬉しかった。小学生の弟達には、誕生日ごとに、お菓子を好きなだけ買ってあげた。家族には、パン屋さんで、安く売ってた物をたくさん買って帰って、家ではみんなが楽しみに待っていた。そのころは、毎日が楽しくて、病気の事はほとんど忘れていられた。家族も誰も知らない事だったし。でも、やっぱり、遠くへは怖くて行く事が出来なかった。そんな中で、19?位の時、に21?の友達(女の子)が現場ですごく高い屋根から誤って転落したと知らされた。パン屋で友達が教えてくれた。急いで帰って、その子の家に電話をして、「落ちたってきいたんやけど、怪我はどう・・・」とまくし立てたら一言ひっそりと「ん・・死んだ・・・」と言われて、パニックになって、「え?え?え?・・・」としか言葉が出て来ない。「ごめん、いろいろやらなあかんから・・・」と電話は切られた。放心状態になってしまって、もう覚えていない。首の骨が折れて即死。お葬式の時、滝のような涙が止まらなかった。帰り道でも止まらなくて、他の友達に心配された。
年度が変わり、部署が変わった。前の課の時に友達の死の後、ひどい発作を起こして、それからは、悪くなる一方で、朝起きてから、夜、眠れる寸前まで不安感が付き纏いだし、気が狂いそうだなんて誰にも相談できず、20歳を超えても不安感が勝って、死を選ぶ事が出来なかった。8時から10時までが精一杯で、10時に30分の休憩時間はいつも更衣室で横になっていた。だんだん、仕事場近くになると、動悸がしてきて、途中で引き返すようになってしまった。頭の中では、爆風スランプの「ランナー」が流れていて、走る走る。。。と励ましながら行くのだけれど、ダメだった。空が青い事がむしょうに怖くて、自転車を一生懸命こぐのだけれど、長く待たなくてはならない信号を超えられなくなり・・・踏み切りを渡れなくなり・・・最後には、とうとう家から出られなくなってしまった。自分の部屋で、電気も点けず、テレビも点けず、ただ、座って苦しいのを我慢する日々が続いた。父や母にさぼってると睨まれ、頼る人がいなかった。でも、私の心は、赤ん坊のようにお母さんを求めていた。抱きしめて欲しかった。でも、・・・心が崩れ落ちそうな時でさえ、甘える事が出来なくて、泣くばかりだった。正常な精神が欲しい。。。。。どれだけ望んだことか。怖い怖い怖い。。。38になった今でも病気が治る気配はない。唯一、私が仕事へ行けなくなってから、手紙をくれた同じ部署の友達がいた。大丈夫?と心配してくれていた。なのに、その子は、結婚させられて、赤ちゃんを産んで。。。いたそうなのに、いつ?。。。気が狂って、自分に笑いかけた赤ん坊を包丁で刺し殺し、その後の事は詳しく聞かされていないが、家へ帰され、叫ぶからとお父さんに殴られていたらしいが、死んでしまったらしい。
私と同じ悩みを抱えていたんだね。自分の事で精一杯でごめんね。手紙をくれたのがSOSだったかもしれないのに。。。抱きしめてあげたかったよ。
あなたの事、大好きで、妹みたいに思っていたんだよ。ごめんね。
年賀状から変な話になってしまった。従妹は、生まれた時から肝臓が悪くて、医者にはダメだろうと言われていたらしい。2つ下の従妹は、子供の時からアフリカの難民の子のように、お腹が異常に出ていた。兄弟がそれぞれ独立して行く中、彼女は病気のためか、長女なのに、看護婦を半日しながら家で過ごしていたようだ。お互いにメールで励ましあっていたけれど、私は、自分が治るとは思えないのに、相手には、大丈夫だよってマイペースね^^。って言っていた。彼女に朗報が入った。病気でもかまわないから、お嫁に欲しいと言われ、結婚をして、もう数年になる。やっぱり、赤ちゃんは無理みたいだったけれど。そして、去年?一昨年?くらいから、肝硬変がひどくなり、静脈瘤が破裂しては、血が胃に溜まり、吐血をして入院を繰り返している。辛いだろうに、付き添いは誰もいない。随分痩せてた。母からこの間聞いた。医者から、もう1年持つか持たないかでしょう、と。36まで生きて来れたのが奇跡だと。
奇跡なんかじゃない。彼女は懸命に生きようとする精神を持っていたからだ。出来るなら、この身体と交換してあげたい。いえ、交換してもらいたいのだ。。。でも、それがもし可能であっても、彼女の崇高な魂は、こんな薄汚れた魂の入れ物になんて入りたくもないことだろう。
生きたい、生きたい、死にたい、生きたい生きたい死にたい。。。普通の精神ってどんな物なんだろう?確かに楽しかった何年かはあったけれど、私は、普通だったのだろうか?強い精神が欲しい。

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