アタシがニュージーランドで留学生活を送っていた1995〜7年。1996年の総選挙で、新しく比例代表制が導入されて、ニュージーランドではじめて緑の党の国会議員が誕生した。(正確に言うと、アライアンス(連合)という小政党の連合に参加して、議席を得たというべき。この後の1999年の選挙では緑の党として議席を得た。)
そんなこともあって、日本ではなぜ緑の党がこれまで力を持てなかったのか、考えてきた。
たとえば、チェルノブイリ事故後の参院選のときに、いくつかの反原発・環境政党のようなものが選挙に出たが、いずれも議席は得られなかった。最近の都知事選じゃないが、バラバラに3つぐらいのグループが出たからで、統一されていなかったからだという人もいるが、アタシから見て、もし統一されていたとしても、参院比例区の一議席にも届かなかっただろうと思われる。
いちばん議席に近かったのは、中村敦夫氏が参議院議員としての再選を目指したときの2004年の参院選で90万票を得た「みどりの会議」だが、これも中村氏の個人票を除けば、世論に「みどり」の思想が受け入れられたというには遙かに遠い。
まあ、ニュージーランドには共産党とか共産主義政党は名目上は存在しても、知識人のサロンみたいなもので、少なくとも国会レベルの政治では問題外であるから、国民党と労働党の二大政党に対する不信が高まったときに「緑の党」が力を得る理由はあったと考えるのは不思議ではない。実際、1991年の選挙では緑の党が10%を超える得票率があったのに、単純小選挙区制の下では議席が得られなかった。そして、そのことが比例代表制導入を求める世論につながったくらいの世論の支持を持ったのである。
日本では、民主党政権が崩壊し、民主党がいまだにもういちど政権を奪還できるほどに信頼を回復していないなかで、自民党に批判的な人々の票は、かなりの部分共産党に回るだろう。それは「緑の党」にではない。
欧州やニュージーランド、オーストラリアで「緑の党」が国政選挙にそれなりの得票をする理由は、有権者のなかに、「脱成長」の思想が一定数は根付いているからである。だが、日本では脱成長の思想は、それこそ知識人のサロンの思想とされて、現実政治の数の力にはまだなり得ていない。
「脱成長って言われても『あなたたちは確かにいい時代を見てきたから、それでいいかもしれませんけどね』としらけましたね」と先の都知事選で田母神サンに投票したさる20代の青年が述べたと毎日新聞は伝えているが、これはいうまでもなく、脱成長を口にした細川氏への批判である。(
http://mainichi.jp/shimen/news/20140307dde012010004000c.html)
日本では、脱成長の思想は、世代間格差の中で経済成長の時代を経験した年長世代への批判を呼び起こす存在になっている。まあ、すき焼きやらステーキやらを食い飽きた老人たちが、「もう肉なんぞ食いたくもない」と言って、自分たち(若者)にも「お茶漬けを食え」と強要する思想として、「脱成長」は写るのである。
ドイツでは、西ドイツ時代に1970年代の2度の石油ショックでかなり深刻に資本主義の自然環境面からの限界を意識させられた。一方、日本では70年代の2度の石油ショックを、政府と財界は民間大企業の労組を取り込んで「首切りはしないが賃上げは自粛する」という条件の下、アジアへの生産部門の一部(特に公害の発生源となる工業生産部門)の経済進出を開始することで乗り切り、80年代にはその日本的経営モデルで世界市場での日本製品の覇権を確立した成功モデルを示した。
70年代、80年代の西ドイツは資本主義への「反省」の時代であったのに対し、日本は「我が世の春」であった。
おそらくこの70年代、80年代のドイツと日本の資本主義経済への視線の違いが、両国の「脱成長」思想の人々への浸透の違いとなって今に現れているのではないか。

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