ふたたび『井伏鱒二と戦争』を読んでの感想。
井伏鱒二の「黒い雨」の素材となったのは「重松日記」であるが、猪瀬直樹や谷沢永一などは「黒い雨」が「重松日記」のリライトに過ぎず、文学的価値がないと語っているのだそうである。猪瀬などは、さすがに「盗作」と言っては問題だと思ったのか、言質を取られないように「リライト」に過ぎないことを強調したそうだ。
しかしながら、もしも井伏が「重松日記」を無断で使用していたのなら、確かに盗作ということになるだろうが、黒古氏の本を読む限りでは、むしろ「日記」の作者が積極的に創作の素材として利用するように提供したということのようである。
盗作とか、著作権侵害というのは、無断で利用された者が権利の侵害があったと訴え出て、はじめて成立する。
少なくとも法的には、盗作とか著作権侵害は、個人間の問題であって、それに無関係な第三者が「盗作」を訴えるなんていうことは、あり得ないと見るべきだろう。まあ、もちろん無断で著作物を利用された人が、何らかの理由で自ら訴えることができないときに、代理で第三者が訴えることができる、ということならあり得るかもしれない。
もちろんこれは、法的に見ればということであって、素材をどう作品化するかという芸術的というか文学的な価値観を論ずるならば話は別だろう。だが、猪瀬や谷沢の言説は、「盗作」と決めつけたという言質は取られないように注意しつつ、暗に読者には盗作を示唆しておいて、いかにも文学的価値を疑うようなことを伝えようとしていたようである。
これはたぶん、「黒い雨」が反核の意識を呼び覚ます作品であることに対して、イチャモンをつけて価値を貶める事を狙った意図があったということか。

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