たぶん絶版になっている本だが、沢部ひとみ「評論なんかこわくない」(飛鳥新社から平成4年刊行)というのがあった。著者は予備校で現代文を教えていた人で、大学入試の現代文によく扱われる7人の評論家(7人のおじさん、といっている)の文章を解説したものだった。
日本の明治から第二次世界大戦前までを近代、それ以後を現代とよぶと、近代の評論の特徴は西欧的な科学的合理主義と自由な個性に基づく近代的自我を重視する、西欧的価値観に大きな信頼をおいて、西欧の新しい学問や思想の紹介に努めたものが多い。
簡単にいうと、西欧はA、日本はB、という違いを分析して見せた後で、西欧的価値観は○、日本はこういう歪みがあるから×、という西欧へのあこがれを表現する評論が多かった。
「ところで評論家のおじさんは、大ざっぱに、二つのタイプに分けられるように思います。一つはさきほどお話した西欧の近代主義を自分の中心思想として取り入れ、そこから意見をのべるタイプ。もう一つは、西欧の学問の方法を学んでから日本人の伝統的な精神に帰り、そこに自分の主張の原点を求めるタイプです。」
前者のタイプは、たとえば寺田寅彦、三木清で、後者は柳田国男、小林秀雄、唐木順三、亀井勝一郎など。西欧と日本の伝統的思想や芸術どちらにも広く通じていて、いろいろ比較を述べて、自分の主張ははっきり出さないのが和辻哲郎タイプ。
現代評論でいえば、加藤周一、中村雄二郎が前者、外山滋比古、山崎正和、森本哲郎が後者、大岡信は中間だと沢部は7人のおじさんを分類している。これまた大ざっぱにいえば、前者は政治的に進歩的で、後者は保守的な人が多い。「入試評論に登場するおじさんたちは、圧倒的に『保守派』が強い。この点は心にとめておいてください。」
さすがにこういう分類も、もう古くなった感じもするが、近代主義がいきづまり、現代を乗り越えようという「ポスト・モダン」思想である、記号論、現象学、フェミニズム、構造主義でさえも日本では「西欧」の新しい動向として輸入された。近代を批判する思想を、「近代主義的に」(啓蒙主義的に)日本に紹介した学者や評論家もいた。なんとも滑稽なことだ。
しかしながら、この本が書かれたころにすでに「保守派」が優勢になっていたのは、なにも政治的に右傾化が進んだというに留まらない事情があった。一部の限られた人だけが西欧に留学できた時代から、日本の経済大国化でわりと気軽に西欧に留学できるようになり、距離が縮まって、等身大の欧米が見えてくると、「進歩派」の描き出す西欧社会がいかにも概念的で、実態はもっとどろどろした部分があるのを、きれいにまとめすぎているように感じる人も出てきたからだ。
そうなると、理想的社会モデルを示して、日本の「後進性」を批判するという方法が説得力を失うのも当然だろう。
そうなると、その時代になお「進歩的」であるためには、西欧の動向に通じているだけではなく、日本の古典にも造詣が深く、日本の保守派が「伝統」と称するものを、それは本当の「伝統」とは言いかねると指摘できるほどに学識がある人でなければ務まらない。たとえば加藤周一先生のように。
中村光夫という文芸評論家がいた。かつては大変有名な人で、岩波新書に「日本の近代小説」「日本の現代小説」という二つの本を書いて、近代文学史の定番みたいな存在だったが、今では忘れられている。なぜかといえば、純文学というものが地盤沈下したということもあるし、中村の文学観は簡単にいえばフランス近代小説の歴史を鑑として、日本の近代小説の私小説中心主義を批判するという、近代主義の典型だったからだろう。
ただ、この人の「移動の時代」という評論のことを思い出して、読み返してみた。中村は、明治時代の写真資料を見ると同じ日本でありながら、ニューヨークやパリの街に比べて自分にとって疎遠に見えてしまうのはなぜかを問う。中村は北村透谷が明治20年代に銀座の風俗を論じた文章を引用する。
「今の時代は物質の革命によりて、その精神を奪はれつつあるなり。その革命は内部において相容れざる分子の衝突より来たりしにあらず。外部の刺激に動かされて来たりしものなり。革命にあらず、移動なり。人心自ら持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自ら殺さざるもの稀なり。」
中村はフランスの文学がロマン派、自然主義、象徴派と30年を1ジェネレーションとして展開し、新しい世代が古い世代を乗り越えて、「革命」を起こして新しい文芸思潮を作り出したのに比較して、日本の近代文学が10年ごとに大きな転換を起こしている、と指摘する。次々に新しい文学の潮流が、流行として輸入され、新しい作家たちが「それぞれに自分を賭けて提出した問題で、いわば芽のままで立ち枯れになってしまったものが実に多い」まま放置されている、という。
私は最近、現代思想という雑誌の増刊号で出た「戦後民衆思想史」のなかで、道場親信さんが書いた「下丸子文化集団とその時代 50年代東京南部サークル運動研究序説」を読んで、1950年代の東京の大田区や品川区にこれほどの労働者文学サークルがあった実態を知って、改めて驚かされた。これら文学サークル運動が1950年代後半におおむね姿を消してしまったことにもまた、驚かされる。これもまた、芽のまま立ち枯れになってしまった文化のひとつなのだろうか。そういえば、小林多喜二の作品ですら、危うく立ち枯れてしまうところだったのだ。
中村は、透谷のこの批評が今日なお生きているのは、現在の日本も「移動の時代」を生きていて、「人心自ら持重するところある能は」ぬ時代だからだ、という。
中村が「現在の日本」といっているのは、北村透谷の時代から約60年後、だいたい戦後の1950年代の話だろう。それからさらに半世紀たった日本は、もはや新しいものを追い求め、「移動」を繰り返すほどの熱意も失われているように思えるのは、私だけか。
中村がフランスを理想化したほどには、フランスも理念に忠実に生きたわけではない、とは今では言えるだろう。どの国も、外国の「新しい」流れや流行にとびつく人もいれば、じっくり自分の根を育てる人もいる。特に新自由主義がはびこったあとの欧米社会で、革命などもう無用という思想がもたらした後遺症は大きいだろう。
日本だけが移動の時代にいたわけでもない。そんなことを言えば、中国や韓国などはもっと大きな「移動」の中に生きている。この問題も大きい。
移動することにも疲れ、それなりの豊かさに安住し、精神も肉体も空洞化している人間社会が出現したということでは、どうやら日本は「先進国」のようですらある。学校という制度はそろった。しかし、肝心の「学びたい」という気持ちは失われた。この「気持ち」とか「動機」とかはどこからも輸入できない。

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