私は旅行が嫌いです。よく夏になると、どこかご旅行でもなさらないんですか、と言われます。そうすると、「どうして夏に旅行しなければいけないんですか」、と思わず問い返してしまいます。
「せっかくのお休みなのに、ずっとおうちにいるんですか」
「ええ、休みぐらいは家でゆっくりしたいですよ。第一、どうして飛行機のチケットが高い時期に、みんなで海外に行くのかわかりません」
こんな風に答えると、たいてい人は黙ってしまいます。もっと相手にうまく合わせるような受け答えでもすればいいのでしょうが、何か愛想がない言い方になってしまいます。
私の父も母も、海外に一度も出ないままに世を去りました。家族でパスポートを取得した経験があるのは私だけです。別に経済事情が許さなかったわけではありません。それどころか、国内に観光旅行したこともあまり記憶がありません。父は、「お子さんがニュージーランドにいる間にいらっしゃればよろしいのに」とある人から言われて、「何をばかなことをいっているんだか」と言っていました。
私は父と意見が違うことがかなりありましたが、この点は父の言うことが正しいと思いました。ニュージーランドにわざわざ行くなら、そこの人々と出会わなければ意味がないのですが、たいていの人は外国に旅行して、実は日本の社会を外国に持ち込んでいるにすぎないのです。
最初に海外に行ったのは1986年で、以後10年間くらいフィリピンには毎年のように行きましたが、NGO関係の活動にまつわるものでした。でも、考えてみればあの時代は日本がバブル景気で、しかも円高が進んだ時期でした。バブルは崩壊しましたが、円はまだ強かった時代、1995年から3年間ニュージーランドで勉強して大学で修士がいただけてからは、またほとんど海外に行かなくなりました。6年ぐらい前にフィリピンに行ってからはどこにも行く気がしなくなりました。
イ・ヨンスクさんの「異邦の記憶 故郷・国家・自由」(晶文社)という本の中の「『雑居』への恐怖」という文章にこういう一節がありました。
「夏目漱石は、朝鮮を旅行して、その後新聞に旅行記を書きますが、そこで朝鮮人をどのように語っているかを見てみると、面白いことがわかります。いまの観光旅行にもそういうことがあると思いますが、実際に現地にいったとしても、自分に見えるものしか見ないわけです。現実のことを語っているように見えても、そこで語られているのは、実はあらかじめもっていた偏見やステレオタイプにすぎないわけです。その当時出ていた新聞や雑誌には、朝鮮や中国の旅行記がたくさんのっていますけれども、ほとんどの旅行記は、現実の朝鮮や中国の姿よりは、日本人がすでに持っていた固定観念を描いているように思います。たとえば、中国人や朝鮮人は怠け者であるとよく書かれています。しかし、考えてみてください。現地の事情もよく知らない人間が突然やって来て、主人のような顔をして命令したら、誰だって怠けたくなるでしょう。自分がいかに場違いな人間であるという自覚がないから、一方的に現地の人々に『怠け者』の烙印を押してしまうんです。」
私がつたない英語でニュージーランドの大学に提出した論文は、自分が関わった日本でのNGOの活動が、どれだけフィリピンに対して抱いている偏見やステレオタイプから日本人が自由になるのに貢献したかを分析したものでした。そのために、ロバート・チェンバースの「第三世界の農村開発」(明石書店)の中に書かれていた、「農村開発ツアー」とか農村の貧困を見えなくする「6つのバイアス(偏見)」などという分析を利用しました。
この本の中でチェンバースは、発展途上国の農村の貧困を専門にしている援助専門家や研究者でさえも陥りがちな、貧困の実相をみえなくする「偏見」について分析しています。もちろん現在では、こうした彼の指摘が受け止められたり、開発学からの批判的分析もあったりして、参加型農村調査法(PRA)のような方法が使われるようになっています。
だが、本当に発展途上国の貧困を救いたければ、まず私たちが「低開発地域」の犠牲の上に自分たちの豊かさを成り立たせている、その事実を正当化するための数々の、植民地時代からの積み重なった文化のなかに潜む「偏見」を脱ぎ捨てなければならないでしょう。
今日の新聞で、アフガニスタンで活動するペシャワール会のワーカーが殺害されたことが新聞の一面に報じられています。数か月前に私は、中村哲さんの講演を聞く機会がありました。そのとき彼は、アフガニスタンの情勢はますます悪化しているので、日本人のスタッフが引き上げることも検討しなければならなくなりそうだというようなことを示唆されていました。
今回の事件の背景について即断するのは早すぎます。しかし推察できることは、ペシャワール会の灌漑プロジェクトが成功し、農村開発もそれなりに活動地域で人々に受け入れられたことで、そのことがプロジェクトの地域外にも知られ始めたことと、アフガニスタンの中央政府がますます弱体化してきて、地域の住民の力の及ばない権力関係の変動が起こったことが重なったなかで起きた事件だということでしょう。あるいは、アフガニスタンの中央政府を後ろから支援する欧米とロシアが今再び対立を深めてきたことも、無関係ではないと思います。
そんなことを考えると、今も昔も、アフガニスタンを食い物にしてきた国々が、またぞろアフガニスタンに平和をもたらすと称して背後でうごめいている姿に嫌気がさしてくるのを禁じえません。これまでアフガニスタンをどんどん悪くした無能力者たちが、それでもやはりなにがしかの役割を果たさざるを得ないとして居座っているわけです。
日本人はせっかくアフガニスタンにこれまでさほど悪いことはしてこなかったし、欧米とロシアとは違う国だという「美しい誤解」が、実は誤解に過ぎなかったことが知られてきたのでしょう。亡くなられた伊藤さんは、そういう状況の犠牲になったわけで、大変にお気の毒です。
ニュージーランドで開発学の修士論文を書きあげたあと、私の次の興味は「先進国」と呼ばれる国々の人々が植民地時代から書き残したり、語ったりするその「言説」のなかに見られる「低開発地域」への偏見の表れ方というか、何を強調して語り、何に目をふさいでいるのかを分析するという領域に移ってしまいました。
したがって、家で文献を読んだり、マスメディアがどのように「発展途上国」を報道し、語っているかについて考えたりするのに忙しくなりました。この情報化時代に、たいていの国のことは情報としてインターネットで手に入る、などとは申しませんけど。それでも家で様々な文献や情報を読むことに忙しくて、ますます、旅行することが少なくなってしまうのです。

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