鶴見良行さんという方がおられた。「バナナと日本人」(岩波新書)の著者として、アジア研究の先達として有名である。私のかつて働いたNGOの呼びかけ人として創設に関わった人で、何度かお話を伺ったことがある。
今もときどき、みすず書房から出ている著作集を読み返す。読み返すと、彼はアジア研究者としては遅く出発したのに、それにしては60代で亡くなってしまったせいで、おそらく書き残したいと思ったことのまだ多くを書き残せないままになってしまった感がある。
それにくらべて、ベトナム反戦運動に関わりつつ書き記したエッセイは、確かに断片的で系統だっていないが、随所に鋭い指摘があって、ものを考えるヒントがつまっている。ベトナム反戦運動からどうしてアジア研究に進んだか、その所信(初心)を私などもおよばずながら大切にしたいと思う。
その鶴見さんが、ベトナム反戦運動に関わった思いを自省的に記した文章で、60年代の反戦運動にせよ、学生運動にせよ、その解放への思いはついに「会社」という組織の中には浸透できなかったというようなことを記していた。
ベトナム反戦運動は、直接軍が参戦しているわけではないが、日本も日米安保を通じてベトナムへのアメリカの侵略に加担していることを批判した運動だと同時に、初めて日本人の戦争責任を問うた市民運動でもあった。
日本の反戦運動が、二度と戦争はいやだという被害者の意識から出発したものの、それが日本の加害責任に思いをいたすまでに1960年代後半まで、敗戦から約20年の歳月が必要だった。
それはなぜかといえば、それまでの20年間は、日本人はアジア諸国と直接に向き合う必要が必ずしもなかったからである。付き合いが疎遠であることが許された。それは朝鮮戦争以来の冷戦のせいである。アメリカの影に隠れて、ひたすらに国内の経済の再建に集中する時間が与えられた。石油などの資源が、輸入によって与えられたという国際情勢にも恵まれていた。
しかしながら、1970年代、二度の石油ショックによって先進国の経済は、インフレと不況の同時進行のスタグフレーションに悩まされた。
だがその中で、日本経済だけが経済成長の面で抜きんでた好調を維持した。なぜ日本だけが貿易、工業生産を伸ばせたのか。その主要な原因は1970年代に行われた「産業再編成」であった。
まず、石油に代表されるエネルギー資源多消費型の素材産業である石油化学、鉄鋼、非鉄金属、紙・パルプ、化学繊維などが、エネルギー価格が上がったために構造不況業種に落ち込むと、これらの産業を、鉄鋼は例外として、切り捨てた。そして、機械、自動車、テレビ、ビデオなどの電気製品、さらに1980年代になると先端技術の産業化に依拠した加工、組み立て産業に国内産業の中心を移した。
切り捨てられた産業は、東南アジアなどへ、安い労働力、土地、原材料、そして軍事独裁政権の下での安定を求めて移転をした。たとえば、アルミニウム産業はインドネシアとブラジル、石油化学産業はシンガポール、イラン、サウジアラビア、紙・パルプ産業はブラジルに工場を作った。鉄鋼業は、鉄鉱石の一次加工過程を川崎製鉄がフィリピンのミンダナオ島に移し、「公害輸出」として有名になった。
当時の通産省の産業構造審議会答申は、このような動きを「資源保有国との新しい国際分業体制の確立をめざした海外立地」であると名付けた。
一方、このような経済発展を「従属論」的にみれば、原料資源産出国に企業移転することで資源の確保を狙い、国際的分業化によって一次加工の半製品までを現地で、あとの最終加工を日本で行い、立地された国の産業構造を従属的な地位に置いて、日系多国籍企業をピラミッドの頂点とした垂直的な支配構造を作り出そうとしたものであるといえる。
1960年代の後半から急激に高まった日本国内の公害反対住民運動や大都市圏での革新自治体の運動が、70年代後半には衰退を迎えたのは、日本国内では立地が難しくなった公害を最も排出する一時加工過程を受け持つ工場が「公害輸出」され、相対的にかつての大気汚染で有名になった大都市の環境が目に見えて改善されたこともひとつの大きな要因となったからだと言われる。この時期の工場受入国は、その多くが独裁政権の下にあり労働運動や住民闘争は禁止もしくは厳しい統制を受けていた。
日本の、大企業を中心とする民間企業の労働組合運動は、賃金抑制を飲む代わりに解雇を最小限に抑え、配置転換を柔軟に受け入れることで経営側と合意を取り付けた。これに対して、公務員の労働三権の制限の撤廃を求めた政治ストを繰り返した官公労組の動きは、労使協調を推進した民間労組との間に亀裂を生じさせ、これが後の国鉄民営化などの臨調路線による官公労組包囲網の結成につながり、総評の解体と民間労組を中心とする連合への再編成へとつながった。
もう一度、アジアと向き合う必要が生まれたとき、日本人の目線は明らかにアジア諸国を上から見下ろすような立場にあった。つまりアジア情報は、海外進出する企業社会の在り方を反映した垂直的関係が反映したものであった。
この日本とアジアとのゆがんだ関係を直視し、アジアを再発見し、水平的な関係に知識を組み換え、学びなおさなければならないという思いが、鶴見さんの書き残したものの中にあふれているのである。
それは、アジアについて知っていたつもりでいたが、実は何も知らなかったという思いである。

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