憲法は、権力を監視するために存在する。もっと言えば、権力が暴走しないために縛っておくためにある。
ところが、民主主義といえば「みんなで決めること」だと考えて、憲法も「みんなが守るべき基本的な法」という意識の人がいまだに多い。
憲法は「みんなで守るべき基本法」ではない。権力を持たない一般人と、権力を持つ人とを区別し、権力を持たない人たちが権力を託された人たちの行動に歯止めをかけるための法律なのである。
ふつうの法律は、国家権力がこれを作り、人々の自由に歯止めをかけるものだが、憲法は権力を持った人に対して、権力を持たない人が働きかける法であり、一般の法とは全く違う性質のものである。
憲法によって、権力を持たない人々が権力を託された人々を監視し続けなければ、権力を託された人々は必ず腐敗する。公務員が不祥事を起こして国民の信頼を裏切った、ということがよく言われるが、実は権力を託されてそれを行使する立場にいる人々は、信頼の対象にするべきではない。常に不信感を持って、監視の対象になる覚悟がなければ権力を託される公務員になどなるべきではない。
もちろん、現代では権力は国家が独占するものではない。むしろ企業と個人の間に権力関係が存在することが多い。憲法は国家機関と個人の間に立って人権を守るために機能するが、私的組織である企業と個人の間にある人権の侵害には必ずしも有効でない部分もある。むしろ私人間の争いには干渉しないという場合もある。
労働者の権利について憲法は定めてはいるが、もちろん具体的方策は労働法など個別の法律に委ねている。
従来の会社法には、株主総会、取締役会、監査役という三つの必要機関が設置され、お互いに抑制と均衡が働かせようと意図されてきた。意思決定機構(株主総会)、執行機能(取締役会)、監視機能(監査役)は、国家における三権分立をまねて作られた。
「いわば性悪説に基づいて、企業経営をしていく力、すなわち経営する側の権力を分割し、分散し、そして相互に抑制させることによって、一定の目的、権力の濫用、この場合経営者の暴走に歯止めを掛けようという仕組みが、従来も会社法の中に組み込まれていた」と言える。(「会社コンプライアンス 内部統制の条件」伊藤真 P96講談社現代新書)
新会社法によっても、さまざまな機関設計が自由にはなったものの、執行機関と監視機関を分離させなければならないという基本的考えは維持されている。
もちろん、このような権力の分立制が文字通り機能してきたわけではない。かつて日本の企業はメインバンクの融資によって支えられてきたために、銀行が企業の監視監督の機能を果たしていた。しかし、バブル崩壊や金融自由化の影響でメイバンクの地位が低下するにつれて、会社法や商法を変えて新しいコーポレートガバナンスの方法が模索され始めた。
会社の取締役は株主のために行動し、株主が会社を監視すべきという考えもあれば、会社を預かる経営執行者が株主はもちろん、消費者を含むステークホールダー(利害関係人)に対して責任を全うするべきだという考えもある。
日本の商法は、戦前はドイツ法の影響を受けて、戦後はアメリカ法の影響を受けて作られた。さらに近年、権力分立をより厳格にして、不信感に基づく緊張関係によって経営を健全化しようという仕組み作りが整備された。不正が確実に発覚するように、文書化をより厳密に義務付けるJSOX法もその例である。
そのため、日本の企業社会にも、あたかも憲法がアメリカからの押しつけだという意見がいまだに政府自民党内に根強く残っているように、会社法改正にしっくりいかない雰囲気があるようである。
特に、せっかく社長になったのだから、監視されたくない、自分の好きなように会社経営したいという経営者の意識のみならず、従業員の方にも権威や権力ある人の下にいて、黙ってついていく方が気が楽だという気分もあり、企業内組合も正社員の雇用さえ守れればという気持ちがあり、労使双方のもたれあいでうまくいくならそれがいいじゃないか、ということなのである。
アメリカ流経営課、日本的経営かの議論は不毛である。その制度が「何のため」なのかを無視して、相互監視という手段の面にばかり目を奪われてしまっていて、それが日本の風土に合わない、押しつけだという拒絶反応ばかりめだつ。あたかも憲法がアメリカの押しつけだから、日本古来の伝統を重視した憲法を作るべきだという議論の滑稽さに似ている。
社長と正社員のもたれあいによるぬるま湯状態を守るために、非正規雇用労働者に過酷な労働を押し付けて恥じなかったり、消費者に有害な製品を売りつけても利益を確保しようとしたりする発想にそれは似ている。護憲と言いながら、日本の平和だけを守ればいいという考えにもそれは似ている。
権力を分立させ、お互いに抑制均衡させるのは、人間は過ちを犯しやすいものであり、本人にとってももし誤りがあればはやくチェックされて、是正した方がよいという考えが根底にあるのであって、単に人間不信や猜疑心を前提にしているわけではない。結果的に個人の能力を最大限に伸ばすことが、全体の利益にもなるという発想が必要なのである。

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