5月1日の朝日新聞に、粟津潔さんの訃報が報じられていました。(以下、引用)
実験精神に富んだ多彩な作品を生み出したグラフィックデザイナーの粟津潔(あわづ・きよし)さんが4月28日午後2時44分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。葬儀は近親者で行った。喪主は妻八重子さん。
29年、東京生まれ。法政大を中退後、絵を独学で描きはじめ、55年に日宣美(日本宣伝美術会)賞を受賞したのをきっかけにデザインの道へ。カラフルな画面に、指紋、ハンコ、肖像画を反復させた作風で知られる。劇場「天井桟敷館」の外観をデザインしたり、「心中天網島」(篠田正浩監督)の映画美術を手がけたりするなど多彩に活躍した。印刷博物館(東京都文京区)の初代館長も務めた。
07〜08年には金沢市の金沢21世紀美術館で1750点を公開する回顧展を開いた。(以上、引用終わり)
粟津さんは、私がかつて属していたNGOが1986年に作られたとき、呼びかけ人に名前を連ねていました。
思えばあのころ、まだ海のものとも山のものともつかないひとつの団体を立ち上げるのにも、有名・無名を問わず、それぞれの人ができる範囲で務めを果たしていました。
そして実際、確実に何かが動いていき、仕事が成し遂げられるという様が目の前に繰り広げられ、少々のトラブルがあっても、話し合って物事がしかるべき方向へと動いていくことが実感できた時代でした。
あとから、「あの時、あの人も関わっていたんだ。」とか、「え!あの人ってそんなスゴイ人だったの・・」と思わぬ発見をすることが多かったものです。
今はなかなかそのような実感が味わえなくなりました。
確かに物事の段取りはスムーズに運ぶとしても、ひとつのプロジェクトを成し遂げようとすると、その背後にあるいろいろな勢力の「思惑」だけが目立つ、そんなことばかりが多くなりました。
そんなことを思っていたら、また別の訃報がありました。
5月3日、朝日新聞は次のように報じています。(以下、引用)
バンドRCサクセションやソロで活躍した日本を代表するロックシンガーの忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名栗原清志〈くりはら・きよし〉)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻の栗原景子さん。
51年東京都生まれ。70年にアコースティック編成のバンドRCサクセションでデビュー。その後、よりロック、R&B色を強くしたバンドとして生まれ変わり、「スローバラード」(76年)「雨あがりの夜空に」(80年)「トランジスタ・ラジオ」(同)などがヒット。82年には坂本龍一さんと歌った「い・け・な・いルージュマジック」が話題になった。
ライブでは、髪の毛を逆立て、派手なメークと独特の歌い方で観客を熱狂させた。「愛しあってるかい?」などステージ上の決めゼリフも多く、後進のロックバンドに大きな影響を与えた。
反原発の楽曲を含むアルバム「カバーズ」(88年)、またパンク風に編曲した「君が代」を収録したアルバム「冬の十字架」(99年)がともに発売中止になり物議を醸す。「北朝鮮に行きたい」と歌うなど、社会問題を果敢に曲に取り込むことでも知られたが、同時に、何かの運動のシンボルに祭り上げられることはかたくなに拒否してきた。
06年7月、喉頭(こうとう)がん治療のための休業宣言をしたが、その後復活ライブ。08年7月、左腸骨への転移が見つかり、すべてのライブ活動をキャンセルし通院治療していた。(以上、引用終わり)
まあ、「いい人は早く死ぬ」、なんて申しませんが・・・。

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