「メルトダウン 21世紀型『金融恐慌』の深層」(朝日新聞社)」の中で、1997年のアジア通貨危機にジョージ・ソロスとの対話を、榊原英資は回想する。
ジョージ・ソロスは、かつては投機家であり、ヘッジ・ファンドにより巨万の富を築いた人で知られていたが、1997年のアジア通貨危機あたりから、グローバル資本主義の危機とか、市場原理主義に対する批判を口にするようになった。
ソロスはもともとは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで哲学者のカール・ポパーに師事したのだそうである。
カール・ポパーといえば、プラトンからマルクスにいたる、計画によって社会を構成しようとする思想を批判し、人間の知識は不完全だが、再帰性をもっていて、常に学習が可能であり、重要であるとことを論じた「開かれた社会」の理念を唱えた。
ソロスは、もちろん市場経済を尊重はするが、同時に市場原理は万能ではないことも強調するようになった。そして、市場原理主義の理論的根拠となっている、新古典派経済学の背景にある哲学的命題に遡って論を展開した。
ソロスにとっての重要な概念は、人間の知識の不完全性(誤謬性)と、人間の思想あるいは期待と現実の相互依存性(再帰制)である。
古典派、あるいは新古典派経済学は、古典物理学(ニュートン力学)的な科学観を背景に持つ。古典派・新古典派経済学は、個人または企業は基本的に合理的なものだと仮定する。そして、期待と現実は相互に独立したものと考えられる。
こうした仮定は、人間がかなり長期的な時間の中でしか影響を持ちえない自然を対象にする自然科学では、近似的、短期的には成り立つ。
しかし、人間を対象とする社会科学では非現実的な理論を導きやすい。
市場は、人々の期待が交差し、下実と影響しあうことで変化する。ケインズが市場を「美人投票」であると表現したように、より多くの人々が考えた方向に結果が引き寄せられる。自然が対象ならば、すべての人が雨が降ると考えても雨は必ずしも降らないが、株式市場ではすべての人が弱気になれば、株は下がる。
18世紀以来の西洋近代合理主義は科学技術を発展させた。そのため、人間の知識が飛躍的に増大したかのような錯覚に陥る。しかし、常識に立ちかえれば、多くの科学的発見は暫定的なものである。
人間の知識の総体など、宇宙や自然の総体から見ればごく限られている。しかも、現実の変化と人間の行動によって、さまざまな相互作用が起こり、事態は刻々と変動する。
つまり、経済活動は不完全な知識を持った個人や組織が、学習を重ねながら、市場という場で相互作用を起こしていく。市場というシステムは、場合によっては極めて不安定なものになり、集団的思い違いからバブルを起こし、崩壊させる。誰もが期待せざる結果を導き出し、市場の失敗も、不可避である。
特定のエリートの作った社会計画で統制を行う共産主義やファシズムが失敗したのち、今度は市場や民主主義によりさえすれば、全てが正しい結果を導くという新しい「原理主義」が勃興した。市場に任せれば全てがうまくいくという市場原理主義、世界に西洋的民主制を広めさえすれば、正しい政治的結果がもたらされるという「ネオコン」的な原理主義がある。
いうまでもなく、市場も、民主主義的政治も、時に誤謬が生じることは免れないし、時にシステム破壊が生じるリスクにも晒される。
特に、情報通信革命が進展し、金融工学が発展すると、人間の思想と期待と現実が相互に影響を与えあい、従来にないほどシステム上のリスクも大きくなり、システムリスクも生じやすくなっている。
ソロスが自らの体験から発した警告があったにもかかわらず、2000年代に入ってもアメリカの政権は市場原理主義を推し進めた。ソロスは、さんざん金を儲けておいて何をいまさら言っているのかと冷笑する人がむしろ多かったように思える。
人々がソロスと著者の指摘するシステムリスクの存在と、リスク管理の方法を真剣に考えざるを得なくなったのは、つい最近のことである。
考えてみれば、ごく常識なことであるが、しかしあまりに常識的すぎることは、かえってかえりみられないということなのであろう。

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