「ゆとり教育」が学力低下をもたらした、とは私は思わない。
ただ、苅谷剛彦さん「教育改革の幻想」(ちくま新書)にも書かれているように、ゆとり教育を政策として推し進めた人々の考え方の前提には、学校教育が過度の受験競争の中で塾などの勉強に時間を取られて子どもが「ゆとり」のない生活を送っている、という考えがあったのは確かだろう。
苅谷さんが様々な統計調査を分析した結果、日本の子どもが最も勉強したのは1950年代から60年代にかけてであり、その後は一貫して2時間以上学校以外で勉強する子どもは減り続け、家でまったく勉強しない子どもが増えているものと考えられる。
むしろ70年代以後の問題は、学習意欲が失われて「学習からの逃走」が起こっているのをどう食い止めるかであった。
だが、それが問題として把握されるようになったのは、「ゆとり教育」が修正されるようになったつい最近のことなのである。
「ゆとり教育」が学習意欲の低下をもたらして、学力を急激に低下させたのではなく、徐々に下がり始めていた日本の子供の学習意欲の減退が、ゆとり教育によってさらにはっきりしたものになったということなのだろう。
それは、小泉改革が「格差」を拡大させたというお話が必ずしも正確ではないのと同じことである。
小泉改革によって、それまで徐々に拡大してきていた日本社会の階層化が、いよいよ目に見える形で露わになったというのが正しいのだろう。
苅谷さんの本には、どうして1970年代以後の子どもの中に「学習からの逃走」が起こってきたのかの原因は書かれていない。だが、1950年代、60年代の小中学生の学習時間が比較的長かったのかは、なんとなく想像できる。
もちろんこれは仮説でしかない話だが、この時期、それまで高等教育への進学など考えもしなかった、たとえば地方の農家の家庭でも、子どもを大学受験させられるようになったことと関係がある。
自分の子供は(特に息子は)、安定したサラリーマンや公務員にすることができるのではないかと親が考え、子供もまた頑張れば自分の親たちよりも自分はいい暮らしができるかもしれないという欲望に駆り立てられた、日本の歴史の中でも数少ない世代だからだろう。
ただこの世代は、教育に対する「夢」が持てたと同時に、やっと入った大学が「大衆化教育」時代に適応していない、人間関係も希薄な旧態依然としたものだったことに、すぐに幻滅を感じた世代でもある。
おそらく寺脇研さんなどの、「ゆとり教育」を推進した文部官僚たちがロマンチックともいえる「新しい学力観」などを打ち出した背景には、自分たちが味わった教育による輝かしい未来への希望と、現実の大学の旧態依然な体質によって味わわされた「幻滅」の温度差が反映しているように思われる。
過度の受験競争に毒された、暗記ばかりで画一的な詰め込み教育は良くないという強固な前提はこうして生まれた。いままではとにかく、そんな教育ではこれからの時代は生き残れない・・・。
情報化社会によって、知識はたちまち陳腐化する時代になった。これからは、生涯にわたって自ら学び、自ら考える力を育む、「新しい学力観」に基づいた教育が求められる!
教師が知識を詰め込むのではなく、子どもの学ぼうとする意欲を大切にして、子供が自ら学びたいことが選べる教育が必要だ・・・。
だが、児童中心主義の教育というものは、退屈な「近代」産業社会を生きなければならない大人たちの絶望が生み出したロマンチシズムの幻想の産物なのかもしれない。
確かに情深社会は知識が陳腐化しやすい。しかし、「ゆとり教育」で薄くなった小学校の教科書に書いてあるような知識はまさか、陳腐化するとはいえないだろう。
「ゆとり教育」を進めた寺脇サンも、有馬朗人元文部大臣も、学習指導要領は最低限のラインを示したもので、余裕のある生徒やもっと勉強したい子どもにはさらに高度なことを教えてもいいというのが「ゆとり教育」の意図なのに、教育現場はそのように動いてくれなかった、と現場の先生方のせいにしている。
中山某(元文部大臣)のように、日教組が日本を滅ぼすために、「ゆとり教育」を利用して、手抜き教育を行って学力を低下させたに違いないという、誇大妄想を抱く人も出てきた。
実際は、「ゆとり教育」によって成績下位の生徒たちは最低ライン以下の内容しか理解できなくなった。そしてさらに、成績が中上位の生徒たちも「さらに難しい内容」に挑戦することもなかった。なぜなら、「学習からの逃走」という傾向が進んでいたからだ。
成績中上位の子どもたちの多くも、「別に勉強しなくていいなら、やらねーよ」ということになったわけである。「勉強なんてしたって、なんかいいことあるの?」「だってもともと、勉強なんて嫌いだもん」。
まあ、中高一貫の進学校を目指していて、お母さんが専業主婦で子どもを「厳しく」指導できる「教育投資家族」のご子弟のみが「ゆとり教育」の恩恵を被ったということに結果としてはなったわけである。
おそらく日教組の、少なくとも現場の教員は問題の本質が「学習からの逃走」であることは知っていたに違いない。だが、日教組の社会的発言力は2〜30年前に比べて著しく低下している。
だから、「ゆとり教育」のような団塊世代ロマンチシズムがかえって「学習からの逃走」を加速するかもしれないという警告は、教育行政のトップの耳に入らないままだったのであろう。

0