加藤陽子「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版)によれば、戦前に国際連盟脱退のときの日本首席全権だった松岡洋右は、むしろ脱退するようなことになってはいけないという考えだったそうである。
当時の外務大臣の内田康哉は、1932年8月25日に満州国承認の決意を衆議院で表明したとき、「国を焦土にしても」という強い言葉を使った。
だが、内田の真意は満州国に関する問題で、日本が強く出れば中国の国民政府のなかにいる対日融和派日本と直接交渉を望むようになると考えていた、という。
芦田均は当時政友会の代議士だったが、日本の満州国承認は当然だとした上で、連盟が日本の主張を無視して、満州国は国際的には承認できないという報告書を出したとしても、日本が連盟規約に違反することにはならないだろうと主張した。
したがって、日本はいたずらに脱退を叫ぶことなく、単に勧告には応じないという態度を取ればよい、と考えていた。
昭和天皇は、内田の強硬路線をとりつつ、中国側を交渉の場に引き出そうとするやり方に不満を持っていたらしい。
松岡洋介もまた、国際連盟で満州国に関するリットン調査団が審議されるなか、内田外相に向かってそろそろ強行姿勢を取ることをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に止まらせようと頑張っている妥協策もうまくいかなくなる、どこかで妥協点を見出すべきだとう電報を残している。
イギリスは、国際連盟の場で当時は非加盟国だったアメリカやソ連の意見を聞いてみること、日中両国を当事国として和協委員会に入れようというものだった。しかし、内田はそんなことをすれば日本は袋叩きにあうと言って反対した。
だが、これはとんだ読み違えだった。
「当時のアメリカは不況のまっただなかにあって、他国に目を向ける余裕がなかった。さらに、32年11月、民主党のフランクリン・D・ルーズベルトが大統領に当選したことで、これまで日本に対して厳しいことをいっていたスティムソン国務長官がハル国務長官に交代する事情もあり、アメリカは国内問題に集中する。つまり、非常に孤立主義的な態度をとる。世界のことなんて関係ない、という態度を取る時代がしばらく続きます。ソ連もまた、31年12月に、日本に対して不可侵条約締結を提議してきたほどでした。農業の集団化に際して、餓死者も出るほどの国内改革を迫られていたのが当時のソ連でしたので、いまだ日本と戦争する準備などはなかったわけです。」
ところが1933年2月、陸軍が満州国南半分、万里の長城の北部分にあたる中国の熱河省に軍隊を侵攻させる。この作戦は軍の独走などではなく、すでに1月に閣議決定されて天皇の裁可も得ていた。陸軍によれば、満州国の一部である熱河省に張学良の軍隊が入り込んでいるので、これを追い出す目的だという。
満洲国内にいる日本の軍隊が、治安維持のために軍隊を動かす。そのことに誰も疑問を持たなかった。
中国ははじめは満州事変によって国際連盟に提訴していたが、32年の海軍が関係する上海事件でも中国側と新たな戦闘が始まり、この件で新たな提訴が行われた。
国際連盟の規約16条は、先に発生した国交断絶にいたるおそれのある事変の解決の際に開かれた理事会で、連盟がその解決に努めているときに、新たな戦争に訴えた国は、すべての連盟国に対して戦争行為に及んだとみなす、となっていた。
陸軍は、満州事変の連続したものが熱河作戦にすぎないと考えている。だが、このことが、まさに連盟規約違反に関わる話に発展し、日本はすべての連盟国の敵となってしまった。
もし違反となれば、通商上、金融上の経済制裁を受けることになり、場合によっては除名という不名誉な事態も避けられなくなる。
ようやく事態の重みに気がついた斎藤実首相は、熱河作戦の閣議決定と天皇の裁可を取り消したいと申し出たが、入れられなかった。
もっとも、天皇は取り消したいと思っていたが、天皇が許可を撤回したときの権威の失墜を怖れて周辺が消極的だった。したがって、除名という不名誉な結果を招く前に、自ら脱退せざるを得ない事態に陥ったということになる。
加藤さんは、「このとき、斎藤首相と天皇の考えのとおりになっていれば、日本の歴史はまた別の道を歩んだかもしれない」と書いているのだが、そうなれば、クーデター、暗殺という事態が起こっていたかもしれない、ということか。
いずれにせよ、強硬策を取って相手の譲歩を引き出そうという外交術が、結果として誰も望まない結果を招いた。あの松岡洋介の熱弁は何だったのか?

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