「奇聞総解」とは、たしか世界を歩いて奇妙なことをいろいろ聞いてみれば、日本のことがよく分かるようになる、という意味だそうです。実は、おかしいのは日本でみんなが当たり前だと思っていることのほうだったということでしょう。
朝日新聞記者の伊藤千尋さんが15日で定年退社されました。でも、当面は「再雇用」となり、「be」編集部で仕事をされるそうです。
20日の日曜日に「奇聞総解」というトークショーが狛江市の小田急線狛江駅そばの「泉の森会館」で開催されました。テーマは「記者生活35年を語る」というものでした。
伊藤さんが最初に新聞社で配属されたのが長崎支局で、夏になると例によって被爆者を回って証言をとるという仕事をしたそうですが、最初、ある被爆者を訪ねても、2時間いろいろ水を向けても、なにひとつ語ってくれなかったという経験をしたそうです。
なぜ何も語ってくれないのか、そのことが分かったのは、のちにベトナムで取材したときに例のソンミ村での虐殺事件の証言をしてくれた女性から、「自分はこんなことは話したくない。話せばあのときのことを思い出し、夜も眠れなくなる。しかし、自分が話すことで、二度とあんなことが起こらないために話す」と言われたからだそうです。
その後、筑豊支局や北九州支局で取材活動をしたそうです。筑豊では上野英信や松下竜一などと交流し、北九州支局では部落解放同盟の利権問題の特集記事をチームで取材したそうです。
そして、入社のときに「スペイン語が話せる」と履歴書に書いたのがきっかけで、東京本社に呼び戻され、中南米特派員になることになったのですが、スペイン語は正式に勉強したわけでなく、学生時代にキューバにサトウキビ刈りの「援農」にいって耳から覚えたものだったということでした。
当時、大新聞の外報部の特派員になる人は、外語大を卒業し、入社後に語学留学をした人がなるものだったそうですので、やや異例な採用だったということでした。
その中南米特派員時代の取材は、彼の最初の著書である「燃える中南米」(岩波新書)に書かれていますが、その後日本に戻られて創刊されたばかりの雑誌「AERA」の編集部に配属になりました。
私が伊藤さんを知ったのは、確かその頃です。フィリピンのネグロス島の取材をするということで、私の勤めていたNGOの事務所を訪れてきた朝日新聞記者が伊藤さんでした。
そのころ、ネグロス島では政府軍やその支援を受けた民兵による反政府勢力とその支援者とみられる村への虐殺や暴力、強制移住が行われていました。ちょっとした、アジアの中の中南米みたいなところがありました。そういう状況をかなり詳しい記事に書いてくれたことが印象に残っています。
創刊当時の「AERA」は、かなり野心的、独創的な取材が許されたそうで、提案を出すとかなり採用され、しかも新聞記事と違い、それなりの長さの記事が書けるよい環境だったようです。この時代、彼はベトナム戦争後のベトナム縦断旅行や、東欧革命のころのチェコやルーマニアの取材を行ったそうです。
その後、伊藤さんは川崎支局長、ロサンゼルス支局長、雑誌「論座」の編集部に勤められましたが、新聞記者として取材したことのうちのほんの少ししか実際には記事にならないことを気にしていたそうです。
取材に応じてくれた人々のなかには、自分の語ったことが新聞に載ることを期待して、苦しい胸の内を語ってくれた人もいたことを思うと、記事にならなかったことを本に書いたり、あるいは講演で話したりすることが必要だと感じるようになった、といいます。
各地で講演すると、しばしば最近の新聞は読みたいと思うような記事や情報が載っていないという声をよく聞くそうです。朝日新聞のみならず、テレビなどのメディアは広告料収入が減っていて、経営が苦しくなりつつあるとのこと。
そうなれば、記者の養成もままならなくなり、ますます紙面が面白くなくなるだろうという見方をしているということでした。
再雇用という身分になって、給料はこれまでの数分の1に激減しましたが、一方でわずらわしい社内の仕事からも解放されたということ。
しかし、最近は「本業ジャーナリスト、副業会社員」を掲げてきた身なので、暮らしにさしたる変化はなく、今後は講演、本や雑誌の執筆などにいそしむということでした。

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