岩井克人先生の講演(朝日新聞・東大主催のシンポジウム「資本主義の将来」)をメモをもとに再現すると、以下のような内容に要約できる。もちろん、要約だから誤解、認識不足による間違いがあるかもしれないが、以下にそれを記す。あくまでも、こちらの頭の整理のためである。
昨年の金融危機は、金融・信用が膨張したバブルが直接のきっかけになった。
しかし、この出来事を、「銀行やヘッジファンドが無恥だ」、「会社のCEO達が傲慢だった」、「サブプライムローンを借りた大衆が無知だった」などと言って、問題を人間の非道徳性だとか愚かさに還元することは、むしろことの本質を見失う。
今回の危機の背後に、資本主義に関する2つの不都合な真実がある。
ひとつは、効率性と安定性の二律背反である。グローバル化を推進した主流派経済学による「自由放任主義」の壮大な実験は、世界中を市場で覆い尽くし、資本主義を純粋化しようというものだった。
この実験によって、社会の効率性も安定性も上がって、理想状態が実現するはずだった。もし世の中でうまくいかないことがあれば、それは何かが市場を阻害しているからだと考える。
しかし、今回の危機は、こういう資本主義の純粋化というか、効率性が起こしたといえる。資本主義の純粋化は、一方では東アジア、東南アジア、BRICsの経済的浮揚に貢献したが、同時に資本主義そのものの安定性の減少を招いたといえる。
第二に、今回の危機は、皮肉なことにむしろ金融資本、とくに株主の力の凋落を表している。
2000年、「会社法の歴史の終焉」を宣言した論文が、ハンズマン教授とクラークマン教授によって書かれた。つまり、会社とは資金を投じた株主のものでしかないということだ。
この株主主権が、グローバル標準、普遍性を持ったのだという宣言だった。
ところがこの論文が書かれた7年後に、金融危機や株主主権論への実際的な反証となることが起こった。
現在は、産業資本主義からポスト産業資本主義に移った時代である。株主主権論は、会社と企業とを混同した法理論上の誤謬によって成り立っている。単なる「強欲」の問題ではなく、むしろ理論上間違っているということだ。
会社は単なる企業ではない。制度的にもっと違ったもの 法人化された企業と言うのがポイントになる。
企業とは、例えば町の八百屋さんのようなもので、これがむしろ古典的企業なのである。
八百屋の奥さんは、店先にあるリンゴをお腹が減ったからひとつたべても何も問題はない。せいぜい店主である自分のダンナさんの目を気にするだけだ。すなわち、八百屋にあるモノはすべてオーナーの所有に属するだからだ。
この考えをそのまま応用してしまったのが株主主権論なのだといえる。
デパートは法人企業であって、話がまったく違ってくる。会社は株主のモノだと解釈すると、町を歩いているときに、たまたまおなかがすいて、自分が株券を所有するデパートにはいって地下の食品売り場にあるリンゴとひとつ食べてしまう。これは窃盗罪になる。
株主は、リンゴの所有者ではない。リンゴの所有者は、法人としての会社である。
法人とは、本来人ではないが法律上ヒトとして扱われるモノである。株主は会社の株式の所有者でしかない。
古典的企業は平屋建てであり、オーナーは財産と所有関係にあり、同時に労働者、顧客、債権者、供給者と契約関係にある。
これに対して、法人企業は2階建てで、株主が一階のモノの部分を所有し、2階の財産は法人としての人が持っている。
私有財産制を2階建てに分けて使っている仕組みだ。会社のありかたの多様性は、この2階と1階の相対的バランスにある。
会社の一階部分を重視するのは、アングロ・サクソン的会社である。
会社の1階部分を強調すれば、それは会社組織の自律性とその成長を重視することになる。
日本やヨーロッパ型は2階の部分を重視している。株主重視型も組織自律型も、どちらも普遍的な会社の形であり、重要なのは、どちらがいいかではなく、どちらでも選べることだ。
法人制度は、その二面性を通して私的所有関係を二重に組み合わせることを可能にしている。一階部分を重視する「利益至上」の会社から、むしろ「非営利」組織に近い会社まで、同じ資本主義の中で共存できうる制度が資本主義だろう。
資本主義は、私有財産制度の可能性を大きく広げる制度だ。この会社制度の本質を、株主主権論は誤解している。
会社統治論、すなわちコーポレートガバナンスの観点から見れば、経営者の行動をいかに統治するかが問題になる。
「主流派」の考える会社統治論では、経営者や自社株を一定価格で買える権利を与えるストックオプションなどに見られるように、経営者にインセンティブを与える契約によって、利益重視で行動させることを目指す。
経営者も株主にしてしまえば、自己利益を追求し それが株主にとって利益を最大化する道になる。これが従来の考え方だった。
しかし会社経営者はノットイコール企業経営者だ。会社は、法律の上ではヒトだが手も眼も頭もない。会社が現実に活動するために、会社のかわりに資産を管理し、契約を結ぶ生身の人間が必要となる。それが経営者だ。
会社と経営者は、人形浄瑠璃の人形と人形使いの関係にある。それは契約関係ではない。
もし契約関係にすれば、自己契約になるので都合のよい契約が書けることになる。
会社と経営者は、信任関係によって成り立つ。子供と後見人、患者と医者、依頼人と弁護士のような関係だ。一方が他方の利益のみを考えて、仕事をする関係だ。理想では個人または職業倫理に任せるのがよい。
だが、現実には倫理はこの世の中で一番希少な資源だ。法律、すなわち信任法によって忠実義務を課す。この忠実義務こそが会社統治の中核となる。
株主の介入や、銀行や、従業員の監視は、裁判所による信任法の執行を補助する役目しかない。資本主義のいちばん中心に「倫理性」が必要になる。
主流派の会社統治論は、倫理としての忠実義務を自己利益に置き換えている。経営者に自己契約的行動への招待状を送っているともいえる。これによって、粉飾決算、利益相反、短期利益を求める無謀投資 エンロン事件や株式バブル、金融危機が生まれた。
誰よりも会社を知っている経営者が株主になれば、こうなっても仕方がない。そもそも論の立て方が間違っていた。
1945年から75年まで、日米のトップ0.1%の所得シェアは同じく2%だったが、現在では日本3%アメリカ8%で格差が拡大している。
アメリカのトップ0.01%所得の内訳を見ると、戦前は資本所得がほとんどだが、これがどんどん減り、営業所得も増え、一番増えたのが給与所得だ。
さて、危機の背景に金融資本の凋落があるとは、どういうことかについて話を進める。
先進資本主義国で資本主義の大きな転換が起こり、産業資本主義からポスト産業資本主義へ変化した。これは、農村の過剰人口が枯渇しはじめたためだ。
利益の源泉の変化が変化したため、大量生産・大量販売から技術革新・製品差別化でないと利潤を生み出せない時代になったと言える。利潤を生みだすものが機械制工場からヒトの脳へと変わった。お金でモノは買えるがヒトは買えない。
札束は魅力的だが、創造性は支配できない。やる気を与えるためには、お金でないサムシング・エルスが必要になる。
それは自由な時間・文化的な環境・共感できる目標・社会的尊敬などなどだろう。ポスト産業資本主義では、金融が支配力を失う。会社における株主の地位の低下へ進む時代だと思われる。
こういう議論をすれば、必ず反論がある。グローバル化や金融革命で、金融が強くなったのではないか、というものだ。しかし、金融が供給過剰で目立つようになっただけだ。
グローバル化とは何だろうか。それは、先進国内で産業資本主義が衰退し、まだ機械制工場でお金をかせげるような途上国に移動してお金が動きまわっているということだ。
金融革命とはなんだろうか?お金が確実な投資先を失ったことの結果、リスクや時間などあらゆる「差異」を商品化してお金の受け皿にしようとすることだ。
いわば、必死で利ザヤを求めているということだ。もっとも安易で、簡単に利潤を得る機会はバブルを起こすことだ。
したがって、今回の危機は、世間常識とは反対に、金融が凋落してる最初の兆候だと思われる。
ポスト産業資本主義における金融とはどういうものか。さらに言えば、ポスト産業資本主義における価値の創出はどのように可能なのか?
確かなことは、機械で大量生産するのではなく、新たな技術、新たな商品、新たな市場を創出することだ。
金融の本来の役割は、差異性を生み出せる人をなんとか見つけ出し、資金を融通し、どこの馬の骨とも分からない人にリスクを負担し、価値の創造を助けることだ。
実体経済と金融活動との新たなバランスを探ること、いかに会社の1階と2階のバランスをとるかがポスト産業資本主義における新しい「国富論」になる。いわば、資本主義においては、効率性と安定性は二律背反の関係にいつもあるということだ。
資本主義の将来について論じるとすれば、わたしは資本主義の擁護者である。ある会合で、ファンドのトップの人が講演会後に私の所に歩み寄って、「あなたは社会主義者か」と言われた。もちろんそうではない。
私は、人間が自由を求めるかぎり資本主義しか選択肢はないと思う。しかし資本主義の真の敵は社会主義ではなく、「自由放任主義」なのだ。皮肉なことに、資本主義の敵は社会主義ではなく。資本主義のイデオロギーそのものなのだ。
もし資本主義の健全な持続可能性を望むなら、そのためには自由放任主義から解放される必要がある。

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