―――新しい時代に対応するために、自民党政府は、いったい、どんな戦略を持っているのだろうか?
わたしが大平正芳に問うと、
「戦略?」
と、大平正芳は、まったく知らない外国語を、突然聞いたような表情で問い返した。ハトが豆鉄砲をくらったような、とはこういう表情のことをいうのだろう。
わたしは、「国家戦略」という言葉を、外国人に日本語で話すように、ゆっくりと二度繰り返した。
「国家戦略だなんて、あなた、そんなたいそうなものは、われわれとしては、べつに・・・。」
「日本のパワー・エリート」田原総一郎 光文社1980年刊行P21
田原サンがなおもしつこく食い下がったけれど、自民党幹事長時代の大平正芳(のちに首相)は、国家戦略という言葉を懸命に否定したそうです。
田原サンは、そのあと何人かの自民党議員に会って、この「国家戦略」と大平さんのその言葉に対する反応について問いただすと、
「国家戦略だ、なんて、そんな言葉を聞かされたら、たまげるのは当然だよ。戦後の日本政治に、国家戦略なんてのはないし、政治家たちは、だれ一人、戦略なんてことを考えたこともなければ、戦略が必要だと思ったことさえないはずだからね。」
つまり、日本の国の「国家戦略」は日本が考えることじゃなくて、アメリカの「国家戦略」を後追いすればいいんだ、ということだったようです。
まあ、戦争中の大本営の「国家戦略」がお粗末極まりなかったから、その後、日本人の多くが軍国主義の匂いをこの言葉に感じていたのかもしれません。
もっとも、この本が出版された後になると、某外務官僚の人が、「戦略的思考とは何か」みたいな本を書きました。この後、わが社の企業戦略だとかいう形で、「戦略」なる言葉は復活してきました。
でも、「戦略的思考とは何か」の著者の国家戦略とは、日本はアングロサクソンの国の後をついていけば100年安心だ、というものだったのにはちょっと笑ってしまいましたけどね。
そして、民主党を中心とした政権ができて、「国家戦略室」が作られました。図らずも、大平さんが亡くなった1980年の選挙で、ミニ政党の社会民主連合から初当選した菅直人さんが副総理兼国家戦略室担当大臣になったわけです。
もっとも、田原サンのこの本には、日本独自の国家戦略を考えようとして、中途で挫折した人物として田中角栄のことが書かれています。彼がロッキード事件に巻き込まれたのは、石油メジャーに頼らずに自前でエネルギー外交を展開したことが、アメリカの逆鱗に触れたからだという、自民党内でよく囁かれたウワサの類があります。
その信憑性は疑わしい、と私は思います。しかしながら、そういう「伝説」が自民党内に生きていたのは事実で、その恐怖感が外交政策を拘束していたとはいえるでしょう。
鳩山さんが国家戦略室を国家戦略局に昇格させる法案の国会への提出を先送りすると決めたのは、どうやら「国家戦略局」なる名前がアメリカを刺激するかもしれないという懸念を、誰かが表明したのかもしれない・・・、などということが推測されます。

0