国家公務員の採用が半減になるという記事が新聞に出ていた。今の公務員制度が良いと言うわけではないが、だからといって数さえ減らせば良いのか、と疑問に思う。
公立学校の公務員は年齢構造がいびつで、若い人は少なくなり、知識も技術も伝承されないのが問題だという話を聞いた。
なぜ若い人の採用を半減させるかというと、つまるところ、総人件費を抑制させるためである。普通ならば、国家公務員の場合は上世代で大して役に立たない人を天下りさせるなどの手法があったのだが、これは昨今批判を浴びている。
ともかく、公務員の世界は今以上に「老人天国」になり、若者が新規参入さえ難しくなっていくだろう。
狭き門に新規参入した、おそらく優秀な頭脳の持ち主も上世代の偏見、いじめでいじけてしまうことが多くなり、早々に辞めるか、あるいは世渡りだけが上手い、つまらない人物になるんだろうということは、目に見えている。
別にワタクシは公務員じゃないし、公務員だったこともないから関係ないと言えば言えるが、若い人を育てない職場というものが確実に日本をダメにするのは無視はできないだろう。
小沢幹事長の政治資金問題なんぞ、どうでもいい。民主党が組合や自治労の利益を擁護しているなどという人の批判も的外れだ。
「もっとまともな民主党批判をする人はないのか?」と思うのである。
ところで、最近は「コミュニケーション能力」という言葉が盛んに言われる。
多くの企業で、コミュニケーション能力を養成すると称して、研修が行われている。
専門の講師による場合もあるし、その企業の職員が講師となる場合もあるようだが、1対1の会話、1対多数の会話等について訓練し、会話しているところをビデオ撮影し、その映像を見ながらみんなで指摘し合い、講師が講評する。
相手に質問する練習として、相手に反論せず、肯定で答える練習とか、自分の意図と反することを相手が言ったときでも直ぐに反論せず、まず肯定してから反対意見を言う練習などがある。
それから、相手が何を言い出しても、肯定的に応答し会話を続ける練習だとか、とにかく、持ち時間を途切れさせることなくつなぐ練習もある。
適切なアイコンタクトをする練習とか、うなづいてメモを取るなどのボディーランゲージの練習もあるそうである。
だが、コミュニケーションとは、特定の誰かに個体化できないからこそコミュニケーションなのではないか。どんなに人付き合いの悪い人も、ある友人とは気楽に話せるということはある。
こうすればすべてうまくいくという方法はなく、相手がだれかによって適切な方法が異なるのだが、それをあたかも個体の性能として特定できるかのように語るのが最近の傾向である。だから、コミュニケーション「能力」というのであろう。
どうして、働くこととコミュニケーション能力とか、社交性が、うるさいくらい結びつけられてしまうのか?
ここで出てくるのが、最近の若者には「コミュニケーション能力」が欠けているという言説である。やれ、最近の若者は一人っ子が多いから、とか、集団にもまれていないからとか・・・。
だが、昔の新入社員なんかも、「ろくに口の利き方もしらねえのか」などと、上司や先輩からぶん殴られながら、それぞれの会社のコードを学んでいったのではないか?
働くことが特定の「職務内容」に強く結びついていれば、人付き合いが悪くても、契約した仕事をきちんと完成させれば「あとは関係ないでしょう」といえる。
ところが日本の会社はメンバーシップが重視され、働くことと具体的な職務内容が直接結びついていない傾向があった。だから、職場の人とうまく付き合うとか、円滑に人間関係を処理するとかいうことが、その人の働く上での重要な要素とされてしまう。
この十年くらいの間で、日本は労働市場を流動化させることがこれからの在り方だという考え方に、いくぶん強引に転換を図ってきた。そのため、「働く能力」は自己責任で身につけよという考えも広まる。
既に正規社員の座を確保した人々も、世の中の流れを敏感に感じ取る。
本来、コミュニケーション能力などというものを、個人に帰属する「能力」とすること自体間違いなのであって、職務能力を持つ個人の集まりがどのようにコミュニケーションを取ればうまくいくかを考えるのは管理者の「能力」に帰する問題である。
日本の会社ではわざわざコミュニケーションなるものを意識もしてきていなかった。
いま、まるでコミュニケーション「能力」なるものが個人の中に実在し、それで人が選別できるかのような話まで出てきた。
しかしそんなものは実在しないのだ。コミュニケーションは個人と個人の間にある存在である。
実在しないものを、いったん「ある」ことにすれば、それが実はないのだと言ってみても誰も信じない。みんなが実は存在しないものの影におびえたり、身につける努力をしなければならなくなったりしている。まるで幽霊に取りつかれたようなものである。
「コミュニケーション能力」の有無で人を選別しようとするのは、本来なすべき職務の内容が確立しないまま、メンバーシップで会社に雇用されるシステムが行き詰まったという状況が、いよいよ抜き差しならないところまで来てしまい、個人が負うべき能力を超えたものが押しつけられている苦しい日本の労働の現実を示しているのかもしれない。
働く者の団体が支援する政党が政権を取りながら、ますます人の職場は働きにくいものになりつつあるという皮肉こそが、政権批判する人の常識にならねばならない。

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