「アジア・ヒューマンライツ アジア人権基金の歩み」(梨の木社)という本が図書館の新規購入書の棚に置いてあった。
手に取ってみると、アジア人権基金が創設20年目で解散したと書かれていた。ちょっと驚いたと同時に、よく20年も続いたもんだという感じもする。
私はこの団体とは関係はない。しかし、この団体ができた1990年ころのことはよく覚えている。
この団体は、土井たか子さんが1986年に日本社会党の委員長になったことがきっかけで生まれたようなものである。この本によれば、1987年に神戸で「アジア人権フォーラム」という国際会議が開かれ、その中でアジアの人権団体を支援するために「アジア人権基金」を創設するという目標が掲げられた。
たしか、日本社会党の選挙公約の中にも、「アジア人権基金を創設する」とかいうことが書かれてあったと思う。
設立呼びかけ人は500名くらい集まり、募金もかなり集まったようだ。大口の募金は、旧総評系の労組が多かったらしいが、当時は財団法人設立は所管する中央官庁の認証が必要だった。
外務省は認可基準を、基金3億円としていたので、それには及ばなかった。このため90年にとりあえず、任意団体としてアジア人権基金を設立することにしたという。
基金という名称は、すなわちまとまった資金を集め、それを運用することでアジアの各国の団体に資金援助する構想だったのだろう。
しかしながら、団体の趣旨に賛同してさらに募金を増やそうとして、緊急支援活動を行うようになった。
92年にフィリピンのピナツボ火山が噴火したころ、当時私の所属していたNGOは、他の団体とともに連絡会を作って協働の募金活動を行ったが、週に一回、麹町の自治労会館で会合を持った記憶がある。その取りまとめは、アジア人権基金の事務局が行っていた。
村井吉敬さんは、アジア人権基金がその設立当初に災害被災者の緊急支援活動に活動を集中したことが「正しい選択だったのかどうか、今でも判断を迷う」ところだと書いている。
災害の被災者は、広い意味では社会的人権の尊重なされていないことから生まれるという意味で人権問題だけど、通常の市民が人権侵害とか人権弾圧という言葉から思う内容とは異なるものがある。
それに、災害被災者の支援と財団の基金を集めることを両立させることは困難なことであった。少ないスタッフでそれをこなすことの無理が重なったこと、そしてバブル崩壊で募金に応じる人が減ったこと、アジア人権基金を生み出した社会党が93年に政権与党にはなったものの、政治勢力としては衰退に向かったことが重なり、アジア人権基金は活動が停滞した。
96年以降は、アジア人権基金は主にアジア人権賞によってアジア各国の人権団体や活動家を表彰することに活動を絞っていった。
私が考えるに、この団体は出自からして特定の政党にあまりにコミットしすぎたこと、当面の資金集めのために緊急支援活動を使ったことが、どうも失敗の原因じゃなかったのかと思う。
面白いのは、ピースウィンズ・ジャパンの大西健丞・代表理事が、NGOワーカーとして最初に働いたのがアジア人権基金のクルド難民支援だったことだ。
この本にも大西さんが一文を寄せているが、93年に彼はイギリスの大学院で学んでいたとき、イラク北部のクルド人地域で欧米のNGO活動を見て、この世界で働きたいと思ったのだが、欧米の大手NGOは経験者しか採用しない。
彼の上智大学時代の恩師が村井教授である。村井教授が理事をしているアジア人権基金は、イラクに人を派遣する予定だったが、その人が行けなくなった。そこで何の経験もない大西さんが派遣されることになった。
大西さんは、別の本でこのときのクルマも満足に買えないほどの資金のない、かなり「悲惨」な現場での活動体験から、日本にも欧米の大手NGO並みのもっと本格的な災害救援NGOを作ることを思い立ったと書いている。
実は現在のピースゥインズ・ジャパンは、アジア人権基金が資金難でイラクでの活動を取りやめることを決めたときに、そのプロジェクトと現地スタッフを引き継ぐ形で設立されたものだそうだ。
大西さんによれば、「もし(アジア人権基金に)『未経験者だから無理だ』と断られていたら、私は『NGOワーカー』になれず、別の道を選んでいたかも知れません。チャンスを与えていただいたおかげで今の自分があると、感謝しています」というが、これは社交辞令だろう。当時は、かなりアジア人権基金にアタマに来ていたのじゃないだろうか。
最後に彼はこう書く。
「最近はNGOも職業の一つとして認知され、たくさんの若者が私たちの仲間に入ってくれます。喜ばしいことですが、一方で、サラリーマン感覚でチャレンジ精神が足りないと思える人もいます。アジア人権基金が学ばせてくれたことを、私も微力ながら伝えていかなければと思っています。」
つまり、アジア人権基金を反面教師にしたということなんだろうか?

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