正村公宏先生の「日本の近代と現代 歴史をどう読むか」(NTT出版)という新著が出た。
著者は、歴史を学ぶ意義を次のように言う。
「21世紀を生きる日本人は、19世紀と20世紀の日本の歴史が私たちにどのような問題を投げかけているかを注意深く読み解く必要がある。成功の局面を研究すると同時に、失敗の局面を研究する必要がある。ある時期の成功の経験は人々の慢心(思いあがり)を育てる。人々が失敗を認める率直さをもたなければ同種の失敗が繰り返される。失敗を認めて制度・政策・組織を変革しようと努力しなければ、失敗による打撃を乗り越えて社会を再建することが不可能になる。」(p6〜7)
この本は、近代日本のふたつの「失敗」について考察している。
一つ目の失敗は、いうまでもなく19世紀後半から20世紀前半における、与えられた国際秩序への適応に勤め、近代国家の実現を目指す取り組みにおいてかなりの成功を収めたにもかかわらず、まもなく領土と勢力圏の拡大を追求するようになり、それが大規模な戦争を引き起こし、国家の破滅を招いたというものである。
二つ目の失敗は、今日に直接つながる問題である。
「20世紀後半になると、軍事的ナショナリズムに代わって経済的ナショナリズムが日本人の行動を強く規定するようになった。産業の合理化・近代化が優先され、やがて日本の人口一人あたりの生産と所得の水準は欧米諸国と肩を並べるようになった。しかし、政府は、高められた生産力を国民の生命の安全と生活の安定のために有効に活用することができなかった。まもなく経済の不均衡が拡大し、政治が迷走をつづけ、急速な少子化が進行し、社会が危機の様相を示すようになった。保育・教育・福祉・医療・環境などの分野で多くの問題が発生し、幼児・児童を対象とする殺人事件、児童・少年・青年による殺人事件などが、繰り返し、報道された。」(P8)
この二つ目の失敗に関して、私にとって興味深いのは、著者が1980年代前半の臨時行政調査会の答申に基づいたいわゆる「増税なき財政再建」路線をきびしく批判している部分である。
「臨調の答申には『高齢化社会が到来するから政府を小さくしておかなければならない』と書かれていた。私は『高齢化社会が到来するからこそ社会保障と社会福祉を信頼できるものにし、必要な社会資本を整備しておかなければならない。公平な方法による費用の負担を国民に求める必要がある』と発言していた。国有鉄道公社・電信電話公社・専売公社の改革は必要であったが、過度の効率優先への傾斜と安全性の軽視がのちに大きな鉄道事故を誘発した。私は、個人の著書や論文でも、民間の研究団体の提言書のなかでも、『歳出を短期間に大幅に削減する政策は日本経済を破壊する』とかいていたし、たまたま出演を求められた臨調の関係者と同席するNHKテレビの座談会でも『臨調行革は日本経済にとっては破壊的であった』と発言していた。」(p274〜5)
著者の予測は当たっていた。現在の日本の経済の行き詰まりは、高齢社会のなかで将来のために個人的に貯蓄した一部の高齢者が、公的な社会保障や福祉に対する不信からその貯蓄を消費しないうえに、最低限の文化的生活も脅かされる貧困層すら生まれてきて、富める者も貧しい者もそれぞれに「将来不安」を口にしているところにあるからである。
ところがアメリカは別にして、欧州諸国からみれば決して「大きな政府」ではあり得ない日本で、いまだに「小さな政府」支持者が多いのは、要するに大きいか小さいかの問題でなく、政府が信じられないからにほかならない。
「政府は自分を守ってくれない」という意識が、富める者も貧しい者も共通した意識になっている。
適正な政府の役割というものを軽視し、やみくもに「小さな政府」を称賛した1980年代における臨調路線の罪は重い。
もちろん当時も社会党・共産党は臨調路線を批判していたが、それに対する支持は少なかった。著者は、当時のいわゆる「革新勢力」にもきびしい発言をしている。
「1950〜60年代の日本のいわゆる『革新勢力』には、大戦後の改革によって民主的議会制が確立されつつある現実を認め、経済成長による国民の所得水準の上昇と生活構造の変動の可能性を見据えて、公害などの悲惨を減らし、社会保障制度と社会福祉事業を拡充し、国民の生命の安全と生活の安定を優先する制度体系を確立する改革を推進することを政治戦略の中核に据えることが求められていた。しかし、マルクス主義イデオロギーにとらわれた人々は、当面のさまざまな事象に対する抵抗あるいは抗議の行動を扇動しつつ将来の革命を目指すという姿勢を維持し続けた。そのため、野党勢力の側では、共通の状況認識をもつことができないイデオロギーの違う諸集団(そこには仏教から派生した創価学会という特異な宗派が含まれていた)の対立が固定化し、野党が与党になるという政権交代の可能性が完全に失われることになった。」(p233〜4)
要するに、政府が安定した社会保障制度と社会福祉事業を推進し、老後の安定をもたらし、さらに失業や病気などのリスクを回避し、安定的な将来の世代の育成がおこなわれる基盤を整えるために、国民に必要な負担額はどれだけであるかを理性的に説得できる政治が不在だったということが、日本の近代の二つの失敗に共通した要素であるといえる。
「政治においては、しばしば、どのような宣伝と扇動が多くの人間を動員することができるかという判断によって、いいかれば当面の政略的有用性の判断によって、政策が選択される。国家と社会の将来にとって何が必要かという長期の戦略的考慮よりも、さしあたり権力を掌握するために(あるいは権力を維持するために)何が必要かという当面の戦略的考慮が重視される。指導者は、しばしば、理性によってではなく、情念によって人々を動かそうとする。そうした政治の特質が、近代と現代の全体を通じて日本の進路をゆがめる基礎要因となった。」(p49)
正村先生は、本書のあとがきによれば、障害者の息子さんを受け入れてくれた施設近くに、「寝たきり」状態になり食事介助が必要になった奥様とともに生活できる施設を見つけて過ごしながら、この著書を執筆されたそうである。
先生は、1970年代には日本に健全な「社会民主主義」政治を実現しようと奮闘していた江田三郎さんの思想的・政策的な支えとなって活動されていた。
私は、もし当時の社会党が江田さんを委員長に選び、60年代に路線転換をしていたら、70年代か80年代の初めに政権を獲得していた可能性があったし、そうなれば今のような日本ではないよりましな日本があったのではなかったかと思っている。
しかしながら、社会党は国民的人気もあった江田三郎さんを党首にする道を選ばず、彼を離党に追い込んだのである。江田さんは、新党結成を呼び掛けつつ、まもなく病に侵されて世を去った。
社会党が路線転換したのは、それから20年近くたってから、1994年にはからずも連立政権に参加し、さらにはからずも村山富市氏が首相になってからのことであった。
まあそれも、なしくずし的路線転換であった。保守陣営がいまだに戦争の政治責任を総括できず、アジア諸国との真の友好関係を育てられなかったのと同じく、革新陣営も自らのマルクス主義路線をソーカツできないのである。
最近、江田さんが生涯の最後に同志として選んだ菅直人さんが、はからずも首相になった。
まあワタクシも、そのことに、はかない、最後の望みをかけたい気持ちなのでありますけど・・・。

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