戦前戦後を通じて、現在は日本の歴史上の転換点にある。
ただ、明治維新や1945年の敗戦のような転換点と違って、日本の多くの人々にとって、あまり直視したくない転換点なのかもしれない。
日本のアジアにおける位置は、これまで経験したことのない逆転現象にある。つまり、日本の支配層にとって、経済力において日本がアジア諸国に次々と追い抜かれているという現実を近代以降はじめて経験し、内心狼狽せざるを得ない状態にいるのだ。
確かに1945年の敗戦は日本の社会的エリート層にとって屈辱ではあった。(多くの大衆にとっては解放された感じがあったのだが。)
しかし、敗戦は日本の支配層やナショナリストからすれば、欧米に敗北したのであって、アジアに敗北したのではないといいきかせてで、自らを慰めていた。
日本の支配層は、アジアの民衆の反植民地抵抗運動の意味をほとんど無視していたのである。
戦後日本は、ナショナリズムを軍事から経済ナショナリズムに変えて、それを国民統合の道具に使ってきた。
日本の優秀さは、戦後復興から高度成長へ、そして世界第二位の経済大国へと「成長」してきたことで証明されるとして「国民」に誇示されてきた。これが、戦後ナショナリズムの統合軸だった。
戦後日本のナショナリズムは、アメリカの外交と安全保障の戦略に政治的にも軍事的にも依存しながら、対外的にアジアへの「第二の侵略」ともいえる植民地なき経済帝国主義として復活した。
この復活劇のなかで、日本の植民地支配の歴史への反省はあいまいなままにされた。
ところが、戦後ナショナリズムが「日本人」の優越性を証明する唯一の根拠としてきた経済力が今や役立たずとなり、かつての植民地地域や第二次大戦の侵略を行った地域の、国家としての急速な経済成長を目の当たりにすることになっている。
1980年代までの圧倒的な日本の優位を背景とした経済ナショナリズムの時代とは全く違ったアジアの現実に、日本の政治エリートは直面している。
戦前の大恐慌の時代も日本経済は疲弊し、農村の貧困は深刻だった。しかし、当時は、東アジアの経済は資本主義的な尺度でいえば、大きく日本に遅れをとっていた。日本国内の社会的・階級的矛盾をアジアへの侵略という形で解決しようとしたのである。
1990年代以降の現在、日本の現実はどうだろうか。戦後日本の多国籍資本が抱え込んでいる過剰資本は、国際競争力の相対的な低下の結果、出口を失っている。
国内の経済は「需要不足」に陥り、企業は有効な投資先を見いだせず、ひたすら「手持ち資金」を貯め込むことに努めているようだ。
物質的な基盤を失ったまま、戦前から戦後に生き延びてきた日本人の観念としてのナショナリズムも行き場を失っている。
その観念の一部は、妄想となって暴走し、攻撃の矛先は、日本で暮らす外国人の移民や労働者、在日朝鮮人への差別的言動となっている。
この分別のなさを押しとどめられるだけの寛容さを現在の日本のナショナリズムは持ち合わせていないかのように見える。
だが、戦前の日本にも中国革命に共感し、孫文を支援したナショナリストが存在した。
石橋湛山の植民地放棄論は、朝鮮や中国の民衆のナショナリズムを無視することはできないという観察から発していた。
自国を愛せと自国民に教えたいならば、他国の人間がそれぞれの国を愛することを尊重しようという寛大さが、日本の社会ではなぜ主流になれなかったのかを良く考えてみなければならない。
今、世界経済が後退する中、アメリカの失業率は10%に迫っている。格差と貧困は激化し、4700万人が医療保険に加入しておらず、中産階級の年金は脅かされている。住宅バブルの崩壊以後、アメリカもまた日本と同じように深刻な需要不足に陥りつつある。
それと比べれば、日本は失業率5%程度、格差が広がりつつあるとはいえ、アメリカほど鮮明ではない。欠陥は目立ってきたとはいえ、国民医療皆保険のシステムはまだ破壊されてはいない。
アメリカの主流派経済学者たちは、これまで日本経済をたたき続けてきた。それは日本の経済をアメリカのバブルを維持するために利用してきたのではなかったのか。
日本は経済とは何のためにあるのか、もう一度考えてみるべきだろう。人々に繁栄と安全を与えるためか、それとも科学を装った経済学者の理論とモデルに従うためにあるのか。
今の時代に与えられた重要な教訓は2つある。バブルは必ず崩壊する。制限のない成長は環境を破壊する。経済成長ばかりを求める時代ではなく、安定成長の下で持続可能な発展を、お金を使わずに多くを成し遂げることを摸索しなければならない。
先進国が異なる成長モデルに切り替えることはたやすいことではない。しかし日本は、アメリカではなくヨーロッパに見習い、その道を進むべきであろう。そして、これまで内心でアジアを蔑視し、アメリカに追従してきた思想を根本から転換するべきである。
いま日本の指導者は、この歴史的転換点を主体的に乗り越えるべきなのだが・・・。
アメリカこそが、日本やヨーロッパにならうべきであろうし、現在の浪費型経済を改めていくべきである。
今のアメリカは、口で小さな政府と自由市場の国といいながら、市場の失敗により多くの財政出動と、成長計画を必要とする国になってしまっている。その現実から我々は学ぶべきである。

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