大阪地検の前田恒彦検事による証拠偽造事件は、もちろん一検事の特殊な事件などではないだろう。事件を生み出す背景には何があるのか。
日本の刑事裁判の有罪率はほぼ99%と異常に高い。
過去の冤罪の被害者は、取り調べのときに自白を強要され、裁判になれば自白を否認して本当のことを主張して闘えばいいと思っていたが、裁判官は検察の調書をほぼそのまま信じて判決を下されたようだ。
しかし、有罪率が99%なのに検挙者の起訴率は60%程度である。
日本の検察は、ほぼ絶対に有罪にできる事件しか起訴しない。国際的にこれは特異だそうである。
検察は、起訴したにもかかわらず無罪にしてしまうことを汚点と考えるようだ。
報道もそれを大々的に報道する。ふだんは犯罪情報を警察や検察に全面的に依存しているせいか、そのようなことが起こると、あたかも大スキャンダルが起きたように扱う。
そうなると、検察はよけい慎重になって、ちょっとでも無罪になるリスクのある事件は立件しないようになる。
このような完璧主義の罠にはまったせいで、今回の特捜事件のように、最初の見立てを間違えると引くに引けなくなり、無実の人をクロにしてしまうことも起こる。同時に心証としてはクロであっても起訴しない事件も多くなる。
もともと検挙に至る事件は氷山の一角で、内偵や張り込みも多くは空振りに終わる。
警察の検挙率が24%に落ちたという。
人間関係の希薄化によって従来の人間関係に頼った捜査の手法が通じなくなり、捜査能力が落ちたこともあるだろう。
だが、より小さな事件でもあまりに完璧に100%有罪にできるところまで持ち込もうとするあまり、有罪に持ち込めそうもない事件は初めから切り捨てているからなんでありましょうね。
検察が起訴する事件の9割以上は被告が事実関係を認めていて、裁判では事実関係を認定するようなことはせずに、量刑だけを争うものになっている。
被告が全面否認で争い、裁判の場で事実関係を審理するような事件はごく少ないのが実情らしい。
裁判官が裁判中に居眠りするようなことがあるという話もあり、あってはならないことだとマスコミは書く。
しかし、起訴事実を否認する事件は1割以下で、刑事事件全体の1%強しかないとなれば、裁判官は両者の言い分に注意深く耳を傾けて事実を見極めなければならないような、頭を使う余地があまりない。これじゃあ、緊張感を持てという方がムリかもしれない。
検察にしても、起訴された事件は有罪率99.9%を何としても守らねばならないとなれば、プレッシャーは必要以上に強くなる。いったん起訴した事件は有罪にしないとメンツを失う。
起訴に至らない多くの「犯罪」が見逃されている可能性がある一方、検察は起訴する1%の事件で、世間に対して一罰百戒をねらう。これでは人々の「体感治安」が悪くなる結果になるのも無理はない。
検察は、少しでも無罪リスクのある事件は起訴せずに葬る一方、いったん起訴しようと決めた事件については、絶対に無理してでも有罪にしようとする。
検察は取り調べの過程を録音やビデオ撮影する「可視化」に抵抗する。
彼らに言わせれば、自分たちは怪しい奴らを「人権」に配慮してずいぶん見逃しているのに、これ以上容疑者の「人権」に配慮したら、起訴したものをほぼ完璧に有罪に持ち込むことが不可能になるという危機感があるからだろう。
大阪地検特捜部の今回の事件は、最初、民主党の石井一参院議員がからむ口利き絡みの汚職事件として着手したもののようである。
ところが、途中で最初に描いた事件の構図に無理があることが明らかになった。しかし、事件の筋書きを見直すことができなかった。政治家が立件できないなら、中央官庁のキャリア官僚を落とさないとメンツが立たないということになったようである。
肝心の証拠文書の日付については、村木元局長が出したと考えた「指示」より前だったということに起訴してから気がついた。起訴してからでは、もはや軌道修正することもできなくなり、様々な点で矛盾が一気に噴き出したために、裁判で検察側の調書が証拠に採用されないという、見るも無残な結果になったのであろう。
この事件によって、もともと捜査の全面可視化をマニフェストに掲げていた民主党の、特に小沢サン支持の議員は力を得たに違いないが、様々な面で力不足でズッコケた千葉景子・前法務大臣ではあっても、もし今回の検察の失態が在任中に明らかになっていたら、あれでも彼女は弁護士出身なのだから、法務官僚に対して巻き返しが可能であったかもしれない。
ところが菅サンが指名した柳田新法務大臣は、これまで法務関係には全然関係がないホントの素人である。全面可視化についても、「これから勉強して自分の意見が持てるようになったら、意見を言う」という感じである。勉強するって、つまり法務官僚から一方的に知識を詰め込まれるっていうことでしょ?
どうも菅内閣のやることはいちいちズレている。
もちろん捜査の全面可視化は進めるべきだろうが、同時に問題なのは検察の「完璧主義」なのかもしれない。
起訴された事件は100%有罪に持ち込もうという「完璧主義」が、今回のような事件の原因になる一方、立証のむずかしい事件や犯罪に消極的になる原因にもなっている。
刑事司法の改革には、検察の「完璧主義」をやめ、公判の途中でも証拠不十分だったら方針を変更するなど、柔軟な運用ができるようにするほうがいいのかもしれない。
マスコミも、逮捕されただけで犯人扱いすることを止め、検察を正義に祭り上げた過去を反省するべきであろう。
そして無罪判決を検察の敗北であるというような報道も止めるべきである。
有罪無罪は検察が決めるのではなく、あくまで法廷で事実を見極めた上で決めるものだという司法の原則に立ち返ることが必要のようだ。

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