朝日新聞に、かつて同時通訳者として知られ、今は立教大学教授の鳥飼久美子さんがインタビューされてこんなことを言っていた。
この20年くらい、日本の英語教育は会話中心(コミュニケーション重視)になってきた。
それなのに、いまだに日本の英語教育は文法訳読ばかり教えて、9年間も英語を勉強してもあいさつ一つできないという批判が、経済界から出る。
学校の英語教育を知る人たちは、コミュニケーション重視の英語教育では学力低下が言われる現状の中では、あまり効果を上げていないから、むしろ文法訳読を復活させるべきじゃないかという話も出ている。
どうして英語教育の現状が一般の人には認知されないのか、それこそが問題である。
少なくとも、会話はできないが読み書きはできるというのは昔話である。ワタクシに言わせれば、「昔は読み書きはできた」というのも、ずいぶん神話化されたお話のように感じるが・・・。
少なくとも、これまでの日本の企業人が外国に放り出されたとき、何とか英語でやってこられたのは、受験英語の「読み書き」の基礎力があったからである。
だいたい、ある程度の基礎力を身につけたら、学校教育としては使命を充分に果たしていると思っていいのであって、あとは「本人の努力」でありましょう。
ワタクシだって高校で柔道の授業が2年くらいあったけど、まさかそれだけで柔道の試合に出られたり、段が取れたりするわけはない。
英語教育について批判するなら、今の学校の英語教育の現状についてきちんと認識を統一させてから語って欲しいものである。
ビジネス界の人々の政策批判なるものは、とかくに自分の努力不足を棚上げにして、ルサンチマン(恨みの感情?)をぶちまけているだけのことが多い。
自己責任論がお好きなわりに、自分のことに関しては自己責任論を放棄するのが経済界というものである。これは、こと英語教育に限った話ではない。
アンタが英語で苦労したのは、アンタの努力不足だ。それがほとんどである。

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