今の日本社会には2つの民主主義がはびこっています。
それは、「観客民主主義」と「手続民主主義」です。2つの民主主義に共通するのは、本質(内容)を議論することなく、形式的な論理を振り回したり、揚げ足取りに終始したりすることで自己満足することです。
自己満足は結局、現状の利権構造を追認し既得権益を固定化することにつながります。
観客民主主義は、地方議会によく見られます。地方議員は、条例を自ら制定するために相当額の政務調査費を報酬とは別に受け取っていますが、実際は何の条例案も提出しません。
知事、市長、行政組織が提出する条例案を批評したりすることはありますが、自分の利権が確保されればそれで矛を収めて賛成に回ります。
かえって条例づくりに熱心だったりすると、当局から疎んじられるかもしれませんが、このような地方議員の態度はますます観客民主主義を助長しているといえます。
これに対して、手続民主主義者は、手続上の合法性や整合性、行政上の過去からの連続性を主張します。理念、政策はお飾りに過ぎず、さらに結果がどうなろうとも、ただ単に手続が遵守されていればそれでよしとします。
そして手続を踏襲し、一度決まったことはどんなにおかしなことでも甘受せよと、一転して強硬に主張し始めます。時に、新しい明確な理念、目的をもつ首長が登場すると、しばしば手続き民主主義者は、独裁者と烙印を押すこともあります。
このような手続民主主義の帰結は、単純な多数決です。単に多数を集めればいいのであれば、議会はいらない。少数派の意見をきちんと公にする機会を与えることは、しばしばないがしろにされます。
実は、多数で決めたことが後になってみれば間違っていたということは十分にあり得ます。そのとき、少数派の意見が案外正しかったとすれば、そこに立ち戻ってやり直すことも可能です。
しかしながら、手続き民主主義者は一度多数で決めたことは、絶対にもとに戻そうとはしません。一度決めたダム計画が何十年たっても完成しないにもかかわらず、決して見直そうと言う機運が生まれないのも、この手続き民主主義の悪弊だといえるでしょう。
「観客民主主義者」と、「手続民主主義者」に共通しているのは、既得権益の維持と現状の追認です。永年、権力の座にいる政官業や為政者は、手続民主主義に幻想を抱き、観客民主主義に陥っている無自覚な有識者とマスコミは、実はわずかのアメを与えることで寝返ってくれる御しやすい存在なのです。
「観客民主主義」と「手続き民主主義」は、ともに民主主義を空洞化させる危険を持っています。
行政においても、民間企業においても、「的確な認識・迅速な行動・明確な責任」の哲学と気概を有するトップが陣頭指揮することが大切であることに変わりはありませんが、福島原子力発電所の事故を引き起こした東京電力においては、原子力発電に批判的な意見を封じ込めるか、あるいは形式的なご意見拝聴に済ませて、真剣に最悪の危機が起きた時を想定していなかったという意味で、手続民主主義に拘泥した組織の病理が見え隠れします。
経営陣は、とにかく自分の任期中には事故が起きなければいいと考え、起きてしまったら「運が悪かった」という考えであったのではないかという態度が表れています。
また、原子力が国策といわれながら、果たして最終的責任は政府なのか、民家企業である東電なのかがはっきりしないという欠陥も露呈しました。産業の空洞化ではなく、組織の空洞化そのものです。

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