例えば、公明党がエネルギー政策を見直しという小さな記事を見ると・・・。
「電力の安定供給と国際競争力に配慮しつつ、原発から太陽光や風力など自然エネルギーへの緩やかな移行を進め、将来的に電力の原発依存度を低くしていく方向で調整する。」(日経新聞 25日)
どうも、原子力への依存を徐々に低くして、自然エネルギーへ移行していくというのが誰にもハンタイできない落としどころになりつつある。
しかし、ここに落としどころではなく、落とし穴があるように思う。
はっきりいえば、これでは脱原発はできないだろう。脱原発を掲げつつ、やはり難しいですねということで、原発廃止がしだいに先延ばしにされていく・・・。
そして、大きな原発事故が起こるとまた「脱原発」という声が一時的に盛り上がり、しかし時がたてばまた「自然エネルギーへの緩やかな移行」で反原発の声をなだめようということが繰り返される・・・。
もっとも、もう一回福島級の事故が日本で起これば、それこそ日本の経済が一気に沈没する。企業が海外に移転するなんていう話で心配しているうちは、まだよかったねという話になる・・・。
そもそも原子力発電の分を自然エネルギーで代替させるという発想が間違っていると思うのだ。今の暮らしや産業の在り方を、自然エネルギーを使って温存しようという考えは、どこか「退廃」が潜んでいないか。
なにも原発推進派がいうように、太陽光にしても風力にしても持続性に乏しいからダメだ、だから原子力しかないという話ではない。
そもそも産業革命以来の先進国のエネルギー消費(浪費)の仕方が間違っているのである。
石油にしろ石炭にしろ、いわゆる化石燃料といわれるものは、百万年の単位の時間をかけて自然エネルギーから徐々に形を変えて形成されたものである。
その自然エネルギーの遺産がずっと使わないままに放置されていたのを、人間がこの200年くらいになって使い始めた。
特に20世紀に入って、まさに遺産を浪費し始めたのである。
しかし、さすがにこのまま石油や石炭を浪費し続けたら、ご先祖様が営々として蓄積してきた遺産をあと2-30年で使い果たしてしまうのではないかという恐怖感から、化石燃料に代わる技術として原子力が開発されたのである。
脱原発派の人たちの中には、原発推進派が「そんなことを言っても、自然エネルギーでは不安定で、太陽光は夜になれば発電できないし、風力は風が吹かなければおしまいだ。これでは安定した工業生産ができない」と言うと、「いや蓄電池の技術が発展するから大丈夫だ」みたいな感じで言い返すことが多い。
いやそもそも、石油や石炭を無限に安く手に入れて発展させるような工業の在り方がそもそも間違っていた。もうそんな発展の仕方は不可能だ答えるのが正解である。
だからこそ、原発の廃止分を自然エネルギーで代替するみたいな言い方をするならば、それは不可能だというべきである。
むしろ、今の原子力発電に依存する部分を省エネするくらいのことをしなければ、人類は持続可能ではない、早く言えばやがて滅亡するということである。
ただし、幸いなことに70年代の石油ショックの時代に言われていたよりは、化石燃料はすぐにはなくならないというのが現実のようだ。特に、天然ガスに関してはかなりの埋蔵量が期待できるらしい。
70億近い世界の人口がみんな先進国並みのエネルギー浪費型の産業と生活をしようとすれば、確かに二酸化炭素のみならず、さまざまな面で環境破壊から人類は滅亡するだろう。
脱原発か否かではなく、真面目に人類が生き延びようとするなら、原発やご先祖さまの遺産(化石燃料)に頼ったエネルギー浪費型の産業や生活の在り方を徐々に変えて、自然エネルギーという自分の「収入」分で生活を賄う暮らしに移行させていくことが求められているのであろう。
原発や化石燃料に依存しない社会に徐々に移行させていこうと真面目に考えるならば、コンバインドサイクル型の天然ガス発電の普及は欠かせないし、自家発電の普及でエネルギー効率のよい化石燃料使用が可能な技術を広めることが不可欠になる。

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