「君子の交わりは淡きこと水の如し」という荘子の境地が人と人との付き合いの要諦であると生物学者の池田清彦さんは言う。(「他人と深く関わらずに生きるには」新潮社)
確かにこの本で池田さんが言うことは、ワタクシにも同意できることが多い。
対人関係はなるべく希薄なほうがいい。
濃厚な付き合いをすると、ワタシのことを本当はどう思っているのだろうか、嫌われているんじゃないか、ワタシの悪口を誰かに言いふらしているんじゃないかと余計なことが気になってくる。
だから悪口を言われないように行動しようなどと考え始めると、どんどん人は自由な生き方から遠ざかることになってしまう。
友はいつ別れてもよいから友なのだ、と池田さんは言う。
最初から無二の親友がいるわけではなく、いつ別れてもよいのだ、という心構えでつき合っているうちに、結果的に30年も、40年もつき合ってしまったというのが無二の親友の真の姿である。
ただ問題は、淡々とした交わりこそが素晴らしいのだと思えるようになるには、面倒な人間関係を経てきたればこそということが多いのかもしれない、ということだ。
生まれたばかりの赤ちゃんは、母親と自分の区別はつかない。母親は自分の一部であるし、母親がいないと死んでしまうこともあるから、赤ちゃんと母親の交わりは淡々としているわけにはいかない。
大人になると許されないはずのそういう関係が、恋愛においては許されてしまう。
ワタシは特別な人と特別な関係を持っていいんだという幻想を抱くことができるのが恋愛というものだが、いずれ夢が醒めれば現実に戻ってしまう。
「恋愛とは、もはや二度と帰らぬ赤ん坊の時の特別な人間関係を、疑似的に復活させることによって、一種のカタルシスを得る遊びなのだと思う。」(P26)
しかしながら、恋愛の幻想は必ず醒める。醒めてしまえばみんなウソである。「恋愛をしている二人の脳は違う脳なので、全く同じ幻想を抱き続けることは不可能」である。
二人の幻想が同時に醒めればいいが、一方は完全に醒めて、一方は醒めていないとややこしいことになる。相手にも同じ幻想を抱き続けて欲しいと望むあまりにストーカー行為に走ったりするかもしれない。
これはどうせ幻想だったんだから、その後は淡々とつき合えばいいとはいうが、なかなかそう上手くはいかない。
交通ルールは事故を減らし、死んだりケガをしたりする人を減らすために作られるのだが、いちど国家というシステムが確立し、法律が制定されると、今度は法律を守ること自体を人に強制する装置になりやすい。
どう見ても車など来ないのに、横断歩道で信号が赤ならば渡らずに待つぐらいならまあ害はないかもしれない。誰かが見ていなければ赤信号でも渡るけど、誰かが見ていたらやめておく、ぐらいで妥協する。
しかしながら、赤信号を無視して渡った人を監視カメラで見つけ出して厳しく取り締まるなんていうことになれば、これは交通ルール原理主義である。
原理主義とは、他人に自分の考え(正義)を押し付けて恬として恥じない、という思想だから、他人と深く関わらずに生きる、こととは水と油ほどの違いがある。
先進国と言われる国ではどこももはや、高い経済成長を期待できないある意味で停滞した社会になった。成長というパラダイムが転換する世の中には、原理主義がはびこりやすいのかもしれない。
欧米でも9.11以後の社会は、ますます原理主義への傾斜が見られつつあるようだ。こうなると、淡々としたつきあいでなく、濃厚な人間関係を強要されたり、そこに巻き込まれたり、あるいは自らそこに飛び込む人が増えてくるのでありましょう。
ノルウェーの反イスラム主義(?)の若者によるテロだとか、秋葉原事件の被告などの行為からは「濃厚な人間関係」への渇望が読み取れる。
淡々とした人間関係がこそが理想だなんていう輩は、恵まれた幼児時代を過ごすことができた特権階級だと弾劾する声が聞こえる?

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