2008年の新憲法に則り、軍政から民政に移管したミャンマーのテイン・セイン大統領は昨年9月末、北部カチン州で中国と共同建設している水力発電用大型ダム「ミッソンダム」の開発中止を表明した。
アウンサンスーチーさんと彼女が率いる国民民主同盟(NLD)にも本格的に活動の自由が与えられ、彼女自身が国会の補欠選挙に立候補する予定だという話も進み、ミャンマーの急速な民主化が進んでいる。
しかしながら、長年ミャンマーの軍事政権による人権侵害を批判してきた人々から見れば、「いったい何が起こっているのか」という感じで事態をひとまずは注意深く見つめているという感じだろうか。
確かに、テイン・セイン大統領自身が元軍人であり、国会の議席を見ても軍の意向がいまだに強く反映されたものと言わざるを得ない。しかも、テイン・セイン大統領は軍の中でもNO4の序列にあった人なので、実質的に軍の操り人形なのではないかという声も強い。
したがって、「事態はいまだ不透明である」と、日本的ジャーナリズムの決まり文句で結ぶことも可能かもしれない。
だが、よくよく考えてみると、中国の援助で開発が行なわれたダム建設が中止になったということも、その決まり方がいかにもトップダウンなやり方である。
もちろん、その決定が結果的に良いことであったにしても、西側の民主主義国だったら、ダム賛成派と反対派が対立して、決定にそれなりに長い時間がかかるということは容易に予想されるところだ。
この大統領の決断は、単にダム建設問題とか、環境問題とか人権問題ということを超えて、中国政府へのなんらかのメッセージを含んでいるということは明らかだろう。
ビルマ建国から長い軍事政権の時代を貫いている外交政策の基本は、外国の干渉を嫌い「中立」を守るというところにあった。そのために、冷戦時代はほとんど「鎖国」に近い外交政策を取ってきた。
1988年には当時のネ・ウィン将軍退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したものの、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化した。
また、2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリストを含め多数の死傷者を出したのはまだ記憶に新しい。
民主化運動を弾圧する理由は、運動が外国勢力からの干渉の手先になっているということを理由に挙げていた。
しかし、2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会(SPDC)議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任した。
そして2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、当時国家元首であったタン・シュエは表向き引退を表明した。
この間、欧米諸国はミャンマーに対して経済制裁を実施してきた。その一方で、中国からは多額の援助を受けたり、インドとの経済的な結びつきを強化したりしてきた。
中国は、エネルギー外交の観点から多額の投資・援助で途上国を抱き込んできた。ミャンマーに対しても資源外交の一環で影響力を行使しようとしてきたのだが、そこに昨年のダム建設中止の決定が下されたわけである。
こうして見ると、ダム建設の中止は中国に対して、過度にミャンマーの国政に関与してくれば排除するという意向を表したのだと考えられるのではないか。それはミャンマー外交の「中立」志向とも合致する。
ミャンマーの軍部は、さらに中国の影響力を抑えるカードとして、国内政治の民主化とうカードを切ったのかもしれない。中国政府にとって、国内政治の「民主化」はきわめてセンシテブな問題である。
アウンサンスーチーさんは、自身がカードになっていることを十分に知りながら、その動きにあえて乗ろうという気持ちであるのだろう。

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