昨日聞いた、加藤哲郎先生の講演には、日本のマルクス主義者からなぜ「反原発」の思想は生まれなかったのかというような副題がついていた。
全体として、日本の原水爆禁止運動は最初から核兵器はハンタイ、しかし平和利用サンセイということが基本にあったという。
原爆の被害地である広島のある製薬会社が、「ピカドン」という名の風邪薬を売り出し、それが富山の薬売りの手で全国に売られていたように、1950年代の日本人知識人から庶民まで、どうも原子力の未来に過大な期待を抱いていたことが分かってくる。
占領下は連合国軍の検閲があり、原爆の真実が隠されていたことも事実ではあるが、どうもそれのみが「核の平和利用」という今から考えれば欺瞞的な考えが蔓延していた理由ではないようだ。
日本は資源がない国である、だから原子力という自前のエネルギー資源が何としても必要だという幻想は、いまだに人々のココロに生きている。
現実は、核燃料サイクルの技術が完結する見通しがないのだから、近い将来、核のゴミが日本中の原子力発電所にあふれてしまうことが明らかなのに、いまだに無限のエネルギー源という話はときどき耳に入ってくる。
今にして思えば、「すべての国の核実験に反対する」と「社会主義国の核実験はハンタイしない」という二つの見解の相違で原水爆禁止運動がブンレツしたという話も、いまだにワタクシなんぞは解せない話であるが、あの武谷三男さんにして、1950年代は社会主義体制でのみ健全な原子力技術が発展するのであって、資本主義国においてはそれに限界があるという説にとらわれていたのだという。
武谷先生が原子力の平和利用という発電にも反対の立場に転換したのは、ソ連の核実験の放射能問題などを経てからだという。
ウーン、まさか社会主義国の放射能は害はないが、資本主義国の核実験の放射能には害がある、とかいうわけにはいかないからね。
武谷先生は、70年代には完全に原子力発電そのものにハンタイの立場に立つようになり、原子力資料情報室の75年の創設にかかわった。その下で事務局長だったのが高木仁三郎さんだが、加藤先生の見方では、高木さんは武谷さんに敬意は表しつつも、思想的には違うものを感じていたのではないか、と語っていた。その辺はよくわからない。
しかしながら、確かにワタクシの狭い読書経験から見ても、高木仁三郎さんの書いたものの中には、後のエコロジー思想的なものは感じても、マルクス主義の色はあまり感じない。
加藤先生によれば、高木さんはフランクフルト学派の哲学から影響を受けたのだというけど、それはホントだろうか。
いずれにせよ、なぜマルクス主義は「核の平和利用」というものの正体が見破れなかったのかはもっと検討してみる価値があるのだろう。マルクス主義はしょせん、近代主義的生産力至上主義の偏見があったということかな?

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