さる弁護士さんの話によると、司法制度改革の一環で裁判員制度が導入されたとき、刑事裁判、しかも重罪にあたる犯罪に関するものだけが適用されることはもはや前提になっていて、例えば政府を相手に個人が訴える行政裁判を対象にしたり、刑事事件でも比較的軽い犯罪から行ったりということは話し合われなかったという。
もしも、裁判に国民の声を反映させるということが趣旨ならば、行政裁判にこそ裁判員制度が導入されるべきであるとワタクシは思うが、そんなことは問題外だったらしい。
まあ、そもそも行政裁判は原告が勝訴する可能性がかなり低いし、そもそも日本の裁判所は行政府の決定を追認するような判決を多く出すから、「常識」的に行政への訴訟に一般市民を関与させたがらないのは容易に予想はできる。
それでは、万引き、窃盗などの死刑が絡むような重大な刑事裁判以外の比較的軽い犯罪についての刑事裁判はどうか。
殺人事件の現場の生々しい写真を見せられて、卒倒した裁判員が出たという話もあるくらいで、いくら裁判に関する一般市民の参加を促すといっても、なぜ重大犯罪なのかという疑問はある。
それではそのような生々しい証拠は避けるということになるかと言えば、例えばナイフで刺した傷の深さが犯罪の動機についての重大な証拠になり得る場合もあるから、いくら残虐なシーンは避けるといってもそれは避けられない場合も多い。
その点、比較的軽い犯罪ならば、市民の常識的判断が関与する意味がある気がするのだが、それもまた議論のソトだったらしい。
なぜか?はっきりした理由は分からないが、ワタクシの推測では多分こんな理由だろう。
受刑者だった人の話では、比較的軽い犯罪を重ねる累犯者の相当数が、貧困から抜け出せないで、刑務所にいるほうが現実の社会にいるよりも少なくとも食べるものに苦労しないということらしい。
その累犯者のなかには、さらに相当数、身体的、あるいは精神的な障碍者が含まれている。
本来、こういう人たちは福祉の恩恵を受けるべきだが、そうはなっていないのがこの国の現状である。
また、罪を償ったのちに社会復帰するといっても、仕事を得るのが非常に困難だという事情もあるようだ。
このようなことから考えると、比較的軽い犯罪の裁判に裁判員制度を導入すれば、フツーの暮らしをしている一般市民である裁判員がこの国の福祉の貧困を目の当たりにしてしまう可能性があり、批判は政府に向かう可能性がある。
そうか、だから比較的軽い犯罪に裁判員制度を導入することは避けられたということなのか?

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