「経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀」(中山智香子 平凡社新書)には、経済学者フリードマンとシカゴ学派が影響を与えたチリのピノチェト大統領が行ったクーデター後の、強権的な新自由主義政策と、そのクーデターでチリを追われシカゴ大学にも在籍したことがあったA.Gフランクが著した「チリにおける経済ジェノサイド」の内容が並行して語られる。
フリードマンと新自由主義についての批判の書は数多いが、この本はフリードマンとその批判者たち、たとえばガルブレイスやスティグリッツなどの批判の要旨も丁寧に追っている好著である。
新自由主義批判についてワタクシが最も関心ある部分は何か。たくさんの批判すべき点がありながら、多くの人はなぜ、フリードマンのある意味単純な理論にダマされてしまうのかという点である。
この本を読んでまず目に付くのは、フリードマンが1960年代後半、ヴェトナム反戦運動が盛んな時代に徴兵制の廃止と志願兵制度への変更を強く主張したという話だ。このことが、比較的恵まれた経済階層出身者が多い大学生の、反戦・反大企業意識を減殺させるのに大いに役立った。
そして、著者は経営学者のドラッカーの年金改革について書いた本「見えざる革命 来たるべき高齢化社会の衝撃」について触れながら、ドラッカーが主張する確定拠出年金の導入と、フリードマンの主張する国営企業を民営化した後にミューチュアル・ファンドを導入するという主張を比較する。
フリードマンは、たとえばイギリスの国営鉄鋼企業が民営化するとき、競売にかけるのでなく、多くの人に少しずつ「所有」してもらうようにすることを推奨した。そこで提唱されたのがミューチュアル・ファンド(オープン型投資信託会社)である。これなら、イギリスの労働者階級の「社会主義的価値観に適っている」と皮肉を込めて、しかしなかば真面目に述べた。
「1970年代初めのアメリカでは、企業の社会的責任をめぐって、たとえば労働組合などは典型的に、経営陣に責任を取るように要求を突き付けていた。ヴェトナム戦争の泥沼化による反戦ムードの高まりもこれに拍車をかけていた。しかるにドラッカーはおそらく、もし労働組合のメンバーをはじめとして企業に勤める労働者たちが、年金基金の資産とその運用(実際にする・しないにかかわらず)を通じて、実は企業は自分たちが『所有』しているのだと考えることができたら、彼らが喜ぶと考えたのである。労働者たちも自分の所有物であれば、なるべくこれをうまく活かし、存続させていくことに熱意が増すであろう。その所有物から利潤があがることが、ひいては自分たちの利益になると考えたら、企業批判の舌鋒もやや鈍るだろう。」(p227)
この本には語られていないが(おそらく続編が書かれればさらに言及されるのであろうが)、リーマン・ショックの引き金を引いたところの、金融工学を駆使して設計されたというサブプライムローンというヤツ。
あれなんかも、つまりは低所得者に「あなたも一戸建て住宅の所有者に」という形で、人々の不満を鎮めて政治的に保守化させようとする意図が隠されていたとすれば、どうもあらゆる場所に新自由主義にわたしたちが取り込まれる甘いワナが隠されているということなんだろう。

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