「同志社大学神学部」(佐藤勝 光文社)は、1970年代後半から80年代初めに同志社大学神学部で学んだ佐藤勝さんの体験が書かれている。
その中で、当時のカトリック教会内部で起きていた神学論争を超えた「政治」の生々しい背景がうかがえる部分がある。(P116〜119)
1978年にポーランド人のローマ教皇(法王)ヨハネ・パウロ2世が生まれた。
東欧共産主義圏から初の教皇が生まれたことは、話題になった。
ヨハネ・パウロ2世は、全体主義に対して批判的なリベラルな教皇だということが、メディアの受け止め方だった。
しかし、カトリック教会の中ではむしろ教理的な締め付けが厳しくなった。
1979年、テューリンゲン大学カトリック神学部のハンス・キュンク教授がバチカンの教理聖省に呼び出され、聴聞を受けた。
バチカン(ローマ教皇庁)は、キュンク教授が教皇無謬説に疑義を呈したことを問題にした。
教皇無謬説とは、ローマ教皇が教皇の立場で表明した教義と倫理に関する言説は絶対に正しいというカトリック教会の公式の立場のこと。
この教義は1869~1870年の第一バチカン公会議の時であった。
ただし、カトリック教会のなかでも、公言はしないが、教皇無謬説に批判的な神父や神学者はたくさんいる。
キュンクはカトリック教会の中では、プロテスタント、ロシア正教、ユダヤ教、仏教などとの対話を積極的に推進するエキュメニカル派の神学者と見られていた。ただし、カトリック教会の教義の枠組みは踏み外さない慎重な人物と思われていた。
ところが、教理聖省の聴聞の結果は、「有罪」だった。彼の学説はカトリック教会の規範的教えに即していないということだった。だから、彼がカトリック神学部で教えることは許されないということになった。
しかしながら、キュンクはテュービンゲン大学カトリック神学部の教授は辞したものの、同じ大学のプロテスタント学部で講義を続けることはできた。
同志社大学神学部の学生だった佐藤勝さんに、緒方純雄教授はこう語った。
「バチカンの大きな戦略があるように思えます。共産圏におけるカトリック教会の巻き返しを図っているのだと思います。そのためには、カトリック教会の指揮命令系統を明確にしておかなくてはならない。それだから教皇の無謬性に疑義を唱える潮流をいまのうちに潰しておかなくてはならないと考えたのでしょう」
キュンク教授の主張は、無謬性でカトリック神学が硬直化して、他宗派や社会に閉ざされた姿勢を取ると、それはかえって教会の力を弱めることになるという観点に立っての批判であり、1962〜65年の第二バチカン公会議の路線に忠実だと言える。
言い換えれば、ヨハネ・パウロ2世は第二バチカン公会議の改革路線を軌道修正しようとし、そのために第二バチカン公会議の路線に沿ったキュンク教授に的を絞って攻撃を加えたのだということ。
しかもこれは、単なる軌道修正ということではない。キュンク教授と同じような主張をしているベルギーのシーレベック教授については、教理聖省は聴聞だけを行って、放置した。
「この線を越えれば処罰される」という教理聖省のラインがそれによって示されれば、神学者はぎりぎりのところで知恵を働かせて、教皇庁の権威に挑戦する。
しかし、同じような主張をしてキュンク教授は処罰され、シーレベックはそうではないとなると、神学者たちは教皇庁上層部の恣意を恐れるようになる。
つまり、カトリック教会の強固なヒエラルキーを利用した、神学論争に身をまとった「政治」がそこに行われていたということになる。
カトリック教会は、第二バチカン公会議の時代の改革を通して、中南米では社会主義的な色彩のある「解放の神学」を生み出しながら、ソ連・東欧圏の揺らぎが見えるなかでは、急速に組織を引き締めて、後の東欧革命の後押しを図ったわけである。

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