柄谷行人さんといえば、「デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです」というスピーチをしたことが話題になった。
柄谷さんの本は、かなり昔、「マルクスその可能性の中心」という本を読んだことがあった。でもその後はなんだか難しげな批評家だからと、敬遠していた。
湾岸戦争のときに中上健次さんなどの作家と声明を出したのは知っていたが、原発デモに参加するようになって、50年ぶりにデモに行ったとかいう話だったので、オヤオヤと思ったが、「人がデモをする社会に変わる」という話は、フーンうまいこと言うな、ぐらいにしか思っていなかった。
ところが「哲学の起源」(岩波書店)を読んで、ちょっとビックリした。
通常、民主主義の起源は古代ギリシャのアテネのポリスにおける政治だと言われている。
しかし、この本によれば、アテネの民主主義は、イオニアのイソノミアという政治の焼き直しにすぎないということのようだ。
で、そのイソノミアとは何か。
普通、民主主義は「自由」と「平等」のふたつを追求するものだ。しかし、この二つは往々にして両立しない。
現代の西欧民主主義は、極端にいえばネオリベラリズム(新自由主義)と社会民主主義(福祉国家)の間を揺れ動いている。言うまでもなく、ネオリベが「自由」を追求し、社会民主主義が「平等」を追求する・・・ことになっている。
だが、このふたつはどう見ても並び立たないのを、なんとか持たせているに過ぎないのは、みんな薄々気が付いている。
アテネの民主主義もまた、自由と平等は並び立たないままに、やがて終焉した。
イオニアのイソノミアという政体は、この自由と平等が並び立った稀有な例であるということである。
アテネの民主主義を歪めたものは、氏族社会の血縁関係であった。しかしながら、イオニアはこの血縁関係による支配がなかった。
後の時代にイソノミアに近い政治が行われたのは、13世紀のアイスランドと、18世紀のアメリカ東海岸地方のタウンシップであった。
アイスランドには独立自営農民による自治社会があり、すべてが農民の集会によって決定された。キリスト教会の司祭はいても、特権的な聖職者の地位にはいなかった。
アイスランドはノルウェーからの移民によって成立したのだが、その移民たちは祖国の血縁などの特殊な関係に支配されることのない、まさに独立した人格の集合体によって成り立ったものだった。
アメリカも、旧社会からの移民による植民から社会が形成されたのだが、こちらも祖国の「しがらみ」から自由な人々がそれを行ったのである。植民といっても、日本が作った満州国という傀儡国家とはだいぶ違う。
柄谷さんのこの本は、イオニアの自然哲学についてもいろいろ書かれているが、そのことはもう少し繰り返して読んでみないとなかなか理解はできない。
だが、20世紀の後半に「共産主義」の幻想が完全に崩壊してからのち、この現在の「ネオリベ・社会民主主義」国家以外の選択肢のない世界に生きなければならないアタシたちにとって、イオニアの「イソノミア」の政体がかつてあったという話は、実はなかなか魅力的な響きを持つ。
ひょっとして、自由と平等が並び立つこの社会ではない「もうひとつの社会」は可能なのかもしれないというオハナシなのであるから。

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