「なぜヒトを殺してはいけないんですか」という問いを発した少年がいて、それを放映したテレビ番組に非難が集中した事件があったように記憶している。もう20年近く前のことだろうか?
どんなヒトにも可能性があるのだから、それを他人が暴力で閉ざしてはいけないなどという答えはまっとうではあるが、どうもわざとらしく聞こえるのはなぜか。アタシにはそれが分からなかった。
しかし、最近になってこう感じるようになった。
日本に限らず、ホントに「ヒトを殺してはいけない」というルールを子供に教えている国はあるんだろうか。
国家は戦争でヒトを殺せと命令する。もし命令に背いたら処罰される。
殺してはいけないのは、自分の「仲間」であり、「自分と同じ国民」である。そして殺して好いのは「仲間のためになるならば・・」ということなんだろう。(もっとも、ヨソモノと通じ合っている奴は殺してもよい・・・)
ワガクニでは、表向きは「すべてのヒトを殺してはいけない」という建前を保ちながら、実は「いざとなったらヤツらを殺せ」という本音をウラで温存してきた。
いざ戦争、というときのみならず、性格的というか精神的におかしいヤツらが人殺しをしたら、そういうヤツらを見せしめに死刑にするのは当然だという考えを温存してきた。
ところが97年だったか、酒鬼薔薇聖斗事件みたいなのが起こって、罪を犯した子供がどう見ても普通の家の、普通に教育を受けた子供だったりすると、初めは精神病の一種だとか、性格的に障害があったとか、親に育て方がおかしかったとか、いろいろ理由付けをして、自分たちとは違うヒトだということになんとか納めたいという人々の欲求が高まってきた。
しかし、マスコミなんかも人々の怖いもの見たさを刺激するということもあるのかもしれないが、「もしかしたら自分の家でも起こりうるのでは?」という恐怖を隠しきれなくなり、あたかも少年犯罪が増加していてすべては「社会」のせいという物語に収めようとした。そして、実は少年犯罪は「三丁目の夕日」の時代以来一貫して減少してきたという事実が示されても、人々はそれに耳を傾けようとしない。
まあこんなことを考えるようになったのも、昨今、敵を外に作ることで国内の自分たちの陣営の政治的立場を固めようという人々があまりにも目立ち始めたからかもしれない。

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