キリスト教原理主義の一部の人ならば、聖書に書いてあることは実際にあったことだ、真実だとして、進化論なんかをを否定する。しかし、いくらなんでもそれは多数ではないだろう。
そうすると、聖書に書いてあったことは科学の発展で信頼性を失ったということか。しかしだからキリスト教への信頼も失墜したかといえばさにあらず。
なぜ多くの信者は科学と宗教を分けるような思考を身につけたか。まあ一番考えられるのは、聖書は一種のブンガクとして読めばいいという思考であろう。
シュライヘルマッハーという人は近代の自由主義神学の祖であるということだが、それはつまり、宗教とは直感と感情がその本質であるというものである。つまり科学が論理と実証だとすれば、宗教は自己の直感と感情によって世界を解釈する。言ってみれば、ロマン主義的な宗教観だ。
まあ、このタイプの宗教家や信者はいまでもたくさんいる。だから、自然科学者にして私生活では熱心な宗教の信者である人がいてもなにも不思議はない。
しかしながらこのタイプの宗教観はホントに正しいのか?総理やら大臣が靖国に参拝するのは個人の「ココロの問題だ。だから外国(実際は中国、韓国?)にとやかく言われる筋合いのものではない」という昨今よく聞くフレーズもまた、実は自由主義神学のなれの果てみたいな話でありましょう。なんだか都合が悪くなると「ココロの問題」に逃げたという感じがどこかつきまとうのである。

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