小泉内閣のころ、「構造改革なくして景気回復なし」ということが言われた。構造改革がいわれた原因は、1990年頃をピークに、以後下り坂を転がり続けている日本経済の現状を、根本的に改めようとする発想であった。
小泉内閣までの10年余りの間、歴代の内閣は何とか景気を落ち込ませないようにと、国家予算を投じて財政出動で回復に努めた。しかしそれによって赤字国債が増え続け、財政破綻が起きるという懸念も生まれた。
日本の経済の低迷は、右肩上がりの成長期には通用した政策や産業構造が、時代に合わなくなって来たからだ、だから構造改革だという発想である。
確かに、景気の良い時に、道路、橋梁、港湾、保養施設、住宅等々が作られ、その時代の負債が、大きくのしかかってきた。これをこのまま続けていてはいけないという発想は理解はできる。
だが、国家や地方の行政組織や政府部門の組織改革はともかく、民間の産業構造も上から投網をかけるように改革できるのかどうか。この辺が、構造改革論の誤解につながる。
景気を回復させないと構造改革ができないという主張をしたりすると、お前はバカか、構造改革せずに景気を回復させ成長軌道に乗せることができるなら、わざわざ痛みを伴う改革などしない、という考えは俗耳に入りやすい。
だがどうだろうか。アベノミクスの成否はともかくとして、ともかくも財政出動と金融緩和と円安がもたらしたある程度の「景気回復」がもたらされたことは確かだ。
そして、それによってなにが起きたかというと、ブラック企業とレッテルを貼られた「労働集約型」産業は、人手不足に陥ってこれまでのビジネスモデルの転換が迫られている。
このままいけば、人件費を負担できない中小企業はまさに「構造改革」されざるを得なくなる。民間の産業構造の「構造改革」は、市場環境の変化によってもたらされるということをよく表しているのではないだろうか?
景気回復という言葉の意味するものは、人によって受け取り方がちがうようだ。
多くの人々にとって、景気回復とはあまり努力しなくても仕事が入ってきて、収入も増えるという状態のことをいう。
しかし、市場経済の論理からみれば、景気回復によって痛みを伴う構造改革が始まるということもあるのである。

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