『井伏鱒二と戦争』(黒古一夫著 彩流社)を書いた動機について、著者はこれまで刊行されてきた井伏鱒二論には、戦争の時代にいかに書してきたかが書かれていないことが気になっていたからだと述べている。
一言でいえば、日中戦争に日本が深入りし始めた時代には軍部に不信感を持っていた人がそれなりにいたのに、日米開戦になるととたんに戦争協力に傾いていった文学者が多い中、井伏鱒二の身の処し方は、まったく時代の波に暑くなることもなく冷静に庶民の暮らしを見つめていたということだろうか。
まあもっとも庶民といっても、すぐに時流に乗りたがるオッチョコチョイも多いのだろうが、井伏鱒二の世界にはあまりそういう人物は現れない。
つまり変な意味での「知識人」もどきが現れない。慎重と言えば慎重な生き方で、時流に流されない生き方がそこにある。
一時、「黒い雨」が盗作であるという話があったが、黒古のこの本によれば、盗作説を主に流していた広島在住だった某歌人の、半分自己宣伝めいた言動が震源地だったようだ。黒古によればこのTという歌人は、現実の被爆者でなければ原爆を文学として表現するべきではないと考えていたようである。そうなると、この人もまた新しい意味で、原爆によってものの見方がゆがんでしまった犠牲者なのかもしれない、などと思った。
「黒い雨」の素材になった「重松日記」は今では出版もされているし、そもそも日記の作者が自分のかいたものよりも、井伏がそれを使って創作したほうが世の中に自分の思いが伝わると考えて積極的に提供したのであるから、別になんの問題もないと見るべきだろう。
あと、この本では原爆には反対するが、核の平和利用としての原発には甘かった文学者や評論家のことが書かれている。大江健三郎や小田切秀雄なども1950年代ぐらいまでは、核の平和利用は容認していたことが引用されている。
加藤哲郎「日本の社会主義」(岩波全書)にも指摘されているが、物理学者の武谷三男が1940年代、50年代前半あたりで盛んに啓蒙主義的な「核の平和利用」推進の評論を書いていたことを思い合わせて、改めて原子力の神話について考えさせられる。
アタクシにしてみれば、もし自分がその時代に生きていれば、ほぼ確実に原子力技術の発展を信じていただろうと思ってしまう。だから、むしろ気になるのは、武谷、大江、小田切といった人々が何をきっかけにして「原爆も原発にも反対」に転じたのか、その辺が知りたいところである。
井伏鱒二は、戦争中の徴用仲間である松本直治が原発技師であった息子を亡くした経験を書いた「原発死 一人息子を奪われた父親の手記」(潮出版)を出版した1978年に、原発への不信感をあらわにした序文を書いたことが、認識の転換点だったようだ。

0