1985年のヴァイツゼッカー演説は旧西ドイツの戦争責任への自覚と良心を示したものとして有名である。
だが、この演説の背景には当時のコール首相が引き起こしたビッドブルグ事件への幕引きをはかるものという政治的な意図があったという。
コール首相は、政治的に保守的であり、社会民主党のブラント政権やシュミット政権から見て、あまり戦争責任への取り組みは熱心ではなかった。むしろ後退させようとしていた。
西ドイツの戦争責任への自覚は、今日から見るほどには順調ではなく、かなりの紆余曲折があった。
戦争責任について最も早く論じたヤスパースの議論についても、彼が1945年に「責任」について講義を行った時は、その主張は世間の受け入れるものではなかったようだ。
彼の言う、法的な罪、政治的な罪はともかく、特にドイツ人自らが内面的な転換を図るものとしての「形而上学上の罪」について理解されるようになるのは、1960年代半ば以降である。
「人道に対する罪」の概念がドイツ法に導入され、戦争犯罪の時効が撤廃されたのはかなり後のことである。
終戦直後からユダヤ人を標的にした暴力事件はドイツ各地で頻発しており、ユダヤ人墓地荒し事件は1949年だけで100件を超えたというし、1948年世論調査では、「ナチズムはよい理念だが、実行の仕方が悪かった」という意見にドイツ住民の58パーセントが賛同していた。
ハンナ・アレントの著作で有名になったアイヒマン裁判は、スエズ動乱を機に、大量の東洋系ユダヤ人が近隣アラブ諸国からイスラエルに流入したとき、東洋系ユダヤ人は、必ずしもホロコーストや欧州におけるユダヤ人の受難の歴史を知らなかったという時代背景のなかで行われた。
ホロコーストをイスラエルの国民統合の柱にする必要があったために、ナチス戦犯の摘発がイスラエル政府の手で行われた。それはシオニズムの正当性に疑念を持つ、イスラエル国外のユダヤ人に対しても、政治的なアピールの力を持った。
ドイツにおいて、戦後すぐの時代は、元ナチ裁判官が一切の不利益を受けることなく退職することが出来たし、公務員、特に法曹関係者は、その過去を事実上免責されていた。
ナチ時代に権力の座にありながら、過去に目を閉ざしたままに権力の座に居座るエリートたちを批判する動きは、1950年代後半には、西ドイツをファシスト国家だと批判した共産主義国家の東ドイツが行なっていたが、60年代に入ると、西ドイツの学生たちや市民運動関係者に受け継がれることになった。
今日に見られるドイツの本当の「反省」は、この時期から始まっている。
60年代半ばに初めて大連立によって政権入りした社会民主党のウィリーブラントは、1969年に本格的に政権を組織する。戦争中に国外から反ナチズムに立ち向かって「ドイツの敵」だったブラントには、裏切り者などの誹謗中傷の言葉が浴びせられていた。
ブラントがその西ドイツの首相になったのは、ナチズムの時代との決別を求める戦後世代が力を持つようになった結果であった。
ブラントの有名な、ポーランドでのユダヤ人虐殺記念碑の前での「躓き」に対しても、西ドイツの世論は、賛否二分されていた。
1985年、当時のアメリカ大統領レーガン大統領が、西ドイツのコール首相と、ビットブルクの軍人墓地を訪問した。このビットブルクには、国防軍だけでなく武装親衛隊兵士も埋葬されていたことが暴露された。同盟国の対独感情は悪化した。
ドイツ国内メディアも分裂した意見だった。いつもは保守系の、親米路線の新聞は、アメリカ批判を展開した。ビットブルク訪問反対の世論を喚起したのがアメリカのユダヤ系上院議員であったことから、ユダヤ人への不信感を煽った面もあった。
反米色が強いはずの左系の新聞は、アメリカ世論に理解を示し、独米関係悪化は、レーガンとコールの責任だと攻撃した。
そのコール首相の危機を救ったのが、同じキリスト教民主同盟出身のヴァイツゼッカー大統領であった。彼の有名な演説はレーガンのビットブルグ訪問の数日後に行われた。
そもそも、コール首相は保守的な歴史研究で学位を取り、ドイツの戦争責任追及には熱心ではなかった。
しかし、その彼が1980年代後半になって、ドイツ統一が視野に入ってくると、急にドイツの戦争責任について熱心に語るようになった。
それは、ドイツ統一に対する近隣諸国、特に英仏からの警戒心を解くために、自分の持論を引っ込めた結果であった。

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