三島由紀夫の「金閣寺」に、次のような一節がある。
「終戦の詔勅をきいてから、東京なら宮城前へゆくところであろうが、誰も居ない京都御所前へ泣きに行った者が大ぜいいる。京都には、こういう時に泣きに行くための神社仏閣が沢山ある。どこもその日は繁盛したしたにちがいない。しかしさすがに金閣寺へ来る者はなかった。」(P80 新潮文庫)
多くの戦争体験者の人々の語る1945年8月15日の経験と比べて、この小説の主人公の「終戦の日」への皮肉を含んだ眼差しに、興味深いものが感じられた。
「京都には、こういう時に泣きに行くための神社仏閣が沢山ある」という言葉に、主人公の心情を超えた、作者の思いも込められている。
「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた。きのうまでの金閣はこうではなかった。とうとう空襲に焼かれなかったこと、今日からのちはもうその惧れがないこと、このことが金閣をして、再び、『昔から自分はここに居り、未来永劫ここに居るだろう』という表情を、取り戻させたのにちがいない。」(p80)
20年ほど前に「金閣寺」初めてを読んだとき、その文章が観念的だと感じながら、我慢して最後まで読んだ記憶がある。
金閣の美について、理屈としては分かるが、はて、それで放火にまで至るのか。主人公に感情移入はできないと思った。別に、放火という犯罪に対する道徳的な拒否反応ではない。
ところが今回読み直してみると、「8月15日」をキーワードにしてみれば、作品全体が極めてよく分かる。
「『金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態・・・。』
敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。今も私の前には、8月15日の焔のような夏の光が見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。」(p81~82)
日米戦争中の主人公は、金閣が「やがて焼夷弾の火に焼かれる」運命にあり、その金閣の運命が自分の運命に「すり寄って来た」かのように感じた。
「金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。」(p57~58)
この美と私の一体感が、敗戦という現実によって切り裂かれた。
吃音により、「私」と外界とのあいだには一つの障碍が置かれているのに対し、「一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができる」(P7)。
多くの「一般人たち」は、敗戦により価値観は崩壊したとはいうものの、ある種の解放感を感じている。しかし、主人公にとって敗戦は、私と金閣が一体の世界に住んでいるという、かすかな生きる希望でもあった幻想さえも奪い取った。
戦中期に感じた金閣と「私」の一体感。それはやがて訪れるはずであった京都への空襲による金閣の炎上によって「私」の命と共に永遠のものになるはずであった。
しかし8月15日によってそれは裏切られた。「私」にとってのありうべき未来の喪失感。その裏切られた精神の修復が、金閣の炎上と共に自らの生命を永遠に一体化することなのであった。
1945年8月15日については、実態は「敗戦」であるのに、多くの日本人はそれを「終戦」と呼んでいたりする。終戦は国際的にみれば、玉音放送のあった8月15日ではなく、ポツダム宣言を受諾した8月14日か、降伏文書に調印した9月2日が適切である。
8月15日とすることで、先祖が帰って来る日に重ね合わせ、戦争もまるで自然現象のように「なりゆくもの」のように感じさせる一種の集団的自己欺瞞が発生した、とも思える。
作者の歴史認識には同意はできずとも、社会の多数派の人間に同調できない精神のありようは感じ取れる。

0