谷崎潤一郎は、小説にとって話の筋の面白さは大切であり、筋の面白さは、物の組み立て方、構造の面白さ、建設的の美しさであって、文学の中でも小説は、構造的美観を最も大量に持つものであり、話の筋の面白さがすべてではないにせよ、それを除外して考えることは、小説の持つ形式上の特権を捨てることに等しいと主張した。
しかし、そこにいう筋の面白さは、通俗で陳腐な正義感に自分を同化させることから生じる快感とは明らかに異なる。
「少年」の主人公である一〇歳の「私」は、同じ学校の良家の息子・信一の屋敷に遊びに行くようになる。
学校では意気地なしである信一は、屋敷に帰ると餓鬼大将の仙吉や姉の光子に対して傍若無人の振る舞いをする美少年に変身する。
「私」はすっかり信一の我が儘な仕打ちに魅了されてしまい、縛ったり虐げたりの遊びを続ける。
最後は、信一も「私」も、光子の下僕となってしまう。
学校では弱虫でいじめられっ子の信一に、なぜか声をかけられて、家に遊びに来るように言われるのがすべてのきっかけである。
「こういって眼の前に置いて見ると、さすが良家の子息だけに気高く美しい所があるように思われた。糸織りの筒袖に博多の献上の帯を締め、黄八丈の羽織を着てきゃらこの白足袋に雪駄を穿いた様子が、色の白い瓜実顔の面立ちとよく似合って、今更品位に打たれたように、私はうっとりとして了った。」
「私」は、信一の家という秘密の空間に入ることで、ついには自分の内にあるマゾヒズムに目覚めていく。
塙家の屋敷という空間で、お祭りの日に招かれたことをきっかけにして、立ち入り禁止の西洋館や、幽玄なピアノの音色、蛇など、様々な仕掛けが登場するなかで、自分の心の内の異常性に目覚めていく。
谷崎は、自分が小説の題材に世の常識からみれば奇怪なものを選ぶことが多いけれど、自分は単なる思い付きで創作したことはないと言う。
あくまでも自分の内側から湧き出した思いに忠実なつもりであると主張する。
谷崎が言う所の小説の筋の面白さは、単に場面展開の奇抜さだけでなく、自らの心のうちに潜む、自ら支配できない秘密が次々に露見していくことの奇抜さであることが分る。

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