わたしが一番きれいだったとき
茨木のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
私が一番きれいだったとき
ラジオからジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
(『茨木のり子集 言の葉1』筑摩書房 2002年 p81〜84)
////////////////////////////////////////////////////////////////
この詩は、国語の教科書にも採用されたことがあるらしいが、残念ながら私の中学、高校時代には習う機会がなかった。
最初に知ったのは、学校の外、さるフォークソンググループが曲をつけて歌っていたのを聞いたことときのことである。その時はフンフン、そうかと思っただけだった。
今回この曲はなんだったのか、改めてインターネットで調べてみると「アテンションプリーズ」という男性のフォークグループで、URCという当時のアングラ音楽を集めたレーベルから発売されたものだったようだ。
メロディーにのせるために言葉を変えてあったせいか、改めて原詩を本で読んでみたら、こちらのほうが話し言葉的な感じが生きていたように感じたのを覚えている。
ついでにいろいろ調べると、アメリカの有名なフォーク歌手のピート・シーガーがこの詩の英語訳に曲をつけて歌っていたのを、今回初めて知った。これはユーチューブで聞くことができたが、はっきりいって、ピート・シーガーには名曲が色々ある中で、あまり出来がよくないように思った。(
http://www.youtube.com/watch?v=8GdnI2alYV4)
メロディーが短調で、いかにも「戦争は悲惨だ」と訴えているような感じがする。やはり、1960年代後半の反戦運動の時代の感情があまりにも直接的に現れているかとも思った。
つまり、私がこの詩に出会ったのは1970年代の話だった。まだ中学生だった。
知識として知っていたこの詩のことを、改めて思い出したのがそれから二十年くらいたってから、場所はニュージーランドだった。
オークランド大学の英語クラスで、自分の国の歴史について短いスピーチをしろ、などという課題が出たあと、じゃあ来週は自分の国の有名な詩を紹介しろということになった。その時に思い出したのが、この詩だった。
幸いにも、大学図書館があり、アジア諸言語専攻のコースがあるため、日本語の本も置いてあり、この詩が載っている本も見ることができた。
改めて読んでみると、若く一番輝いているべきときに、誰もが生活に追われ、誰からも顧みられることのなくすごした無念さがよく伝わってきた。
作者は自分のこの詩について、次のように書いている。
「その頃、『ああ、私はいま、はたちなのね』としみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか死ぬか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから『わたしが一番きれいだったとき』という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない。
「個人的な詩として書いたのに、思いもよらず同世代の女性たちから共感を寄せられ、よく代弁してもらったと言われるとき、似たような気持ちで当時を過ごした人達が沢山居たことを今になって思う。」(「はたちが敗戦」『茨木のり子集 言の葉1』所収 p197〜198 筑摩書房 2002年 )
この詩は、というかこの作者の詩は、別にむずかしい言葉で書かれているわけではない。
では意味がすぐに伝わるかというと、なかなかそれは難しい。英語に訳されたこの詩を、ニュージーランドの現地の人、韓国人、中国人、たしかメキシコ人もいたと思うが、その人達のまえで紹介してみた。
もちろん、英語が第一言語じゃない人に英語で伝えることのむずかしさはあるにしても、それ以外の障害が結構あることに気が付いた。
ちなみに、英訳は図書館で見つけた日本の現代詩の主たる代表作の英訳を集めた本からコピーしたものだった。私が読んだ限りでは、正しく翻訳されていたように思えたから、こちらのつたない英語の翻訳上の誤解はないと思われた。
私などは、両親から敗戦前後の食糧難、物資の不足、みんなが栄養失調状態という実態を聞かされていた。そのことがこの詩を読む前の大前提としてあった。
だが、日本人以外の外国人にはその前提知識がない。すると、なかなか一読して理解とはいかない部分があるようだった。
特に普段から詩を読みなれていない人の場合、「わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか」あたりにのみ目が行って、ははあ、この詩は戦争で負けて悲しいといっているのか、などという誤解が生じることもあるみたいだ。
もちろん、そう考えると詩の他の部分に不可解なところが生じる。「わたしの頭はからっぽで / わたしの心はかたくなで」というあたりは、はっきりとは表現されていないが、どう見ても自分の国が正しく、いまでも「いくさに負けて悔しい」と思っている人がこの詩を書いているとすれば、変な言葉づかいということになってしまう。
戦時中、政府は戦争の状況について、正しい報道をしてこなかった。日本が戦争の泥沼にはまっていく前のまだ平和な時代を知っている年齢の大人だったら、情報統制のウソは見抜けたかもしれない。
だが、当時少年少女だった人達は、政府の情報が正しいと信じており、敗戦を契機にして、頭の中がすべて覆されたような気持ちが生じたであろう。
その背景の説明が、まったく当時の日本の事情を知らない人への説明に必要だった。
この詩は、作者も言っているように、人生の本来一番楽しいはずの年代の、その楽しさを奪われたことへの、あえて強い言葉を使えば、「恨み」のようなものがまず芯にある。そして、付け加えれば正しくないものを正しいと信じさせていた政治に対して、一度は騙されたがもう二度と騙されまいという意思が感じられる。
だから、戦争の悲惨さを悲しむよりも、何があってもこの先生き延びてやるんだという意思が感じられる。それがこの詩の良い所である。
この個人的な「恨み」と権力への懐疑の念のふたつは、ある意味で、どのような政府に反対する社会運動や野党よりも強い。
やはりニュージーランドで、日本の現代史(現代詩ではない)を専攻している大学の先生と話していて、日本の憲法九条が現実の日本の自衛隊と矛盾しているという話になったとき、やはりこの詩のことを思い出した。
日本では、戦後ほとんどの時期、この条項を変えたいと思っている人たちが権力の座にあった。
それなのに、いままでこの条項は生き延びている。
別に憲法改正のために、国会の両院の3分の2以上の賛成と、さらに国民投票が必要だという条件があるからできなかったということだけが理由というわけだけでもなさそうである。
なぜなら、国会議員を合法的に買収して両院の3分の2を確保したり、国民投票においてテレビやラジオや新聞やインターネットを駆使すれば、いくらでも政府による情報操作なども、あくまでも合法的な範囲で可能だろう。
しかしながら、いちど権力に騙されていたという「恨み」を持ち、もう二度と騙されないという人々が一定数いれば、やはり憲法のあの条項を変えるのはそう簡単ではない。
そうやって、戦後の長い年月が過ぎたということなのか、と私は外国で改めて考えさせられた。
そのときに、この知識として知っていたこの詩の言葉が、心の中で別の重みをもった「ことば」として蘇ってきたのだった。

0