話せば分かるというセリフは今や必ずしも説得力はない。
議論において、真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される「感情の劣化」現象が起こっている。
つまり、最終的な目的が埒外になってしまい、過程におけるカタルシスを得ようとする傾向が人々の中に強くなっているようだ。
議論を始めると、感情を制御できなくなり、〈表現〉よりも〈表出〉に固着する。
〈表現〉の成否は相手を意図通りに動かすこと、つまり説得にある。ところが〈表出〉の成否は自分の気分がスッキリしたかどうかで決まる。
部族社会では、「政りごと=政治」と「祭りごと=祭祀」とが区別されなかった。これは、〈表現〉と〈表出〉が癒合していたということで、癒合を支える前提は、共同体的な人間関係である。
経済社会の発展が進み、部族社会以後になると、社会領域を濃密な共同性で覆えなくなる。
文明的段階(帝国的段階)になると、必ず〈表現〉と〈表出〉が峻別されるようになる。
近代社会には、〈表現〉と〈表出〉の峻別がないと社会システムが淘汰されてしまう。
血縁集団であれ、企業組織であれ、国民国家であれ同じことである。
近代的社会では、人々は以前より感情の制御能力を強く求められるようになる。
感情が制御されないとき、社会システムは崩壊する。
民主主義が健全に作動するには、エリートから庶民まで〈表現〉と〈表出〉を区別できなければならない。
しかし20世紀における大衆社会論は、19世紀末に新聞大衆化と共に始まり、マスコミの発達に並行して、(表現)と(表出)の区別の困難さが深化すると主張する。
最終戦争ともいわれる大戦争だった第1次大戦の後、民主制が戦争を回避できなかった理由として、ラジオと新聞の感情的動員が挙げられた。
人々が分断され孤立すると、感情的に動員されて、選挙や議会決議で愚昧な開戦に道が開かれると分析する。そして、感情によって動員される人々を〈公衆〉ならぬ〈大衆〉と呼ぶ。
そして、ナチス政権がメディア的動員で誕生した。
第2次大戦後はナチスへの反省から、マスコミ研究と亡命ユダヤ人の批判社会理論が、人々が分断され孤立した状態に置かれない条件を実証研究した。
経済的な再配分政策によって形成された分厚い中間層が可能にする近隣ネットワークが民主主義の土台として見出された。
第2次大戦後の20年間は重化学工業化が進み、技術革新の限界効用の高さもあって、先進各国で中間集団が膨らんで中流意識も拡がり、それを背景に民主制の妥当な作動を支える〈公衆〉の存在が確信された。
ところが80年代になると、福祉国家体制が財政的に破綻して新自由主義の時代が始まり、続いて冷戦体制が終焉して資本移動自由化(グローバル化)の時代が始まる。
かくて過去20年間、先進各国の中間層が一挙に分解した。
21世紀に入ると、先進各国で〈大衆〉の感情に訴えて溜飲を下げる勇ましい言論活動によって、議員や大統領に選ばれるという〈感情の政治〉が始まった。
資本移動自由化にブレーキがかからないようになればなるほど、浅ましい排外主義が跋扈し始めた。
ポピュリスト政治家たちの躍動による〈感情の政治〉は、社会の構成員から肝心の政策的関心を奪い去り、議論を矮小化させる危険を孕んでいる。
これを回避する方法は、短期には浅ましい輩から主導権を奪うスモールユニットでの〈熟議〉と〈ファシリテイタ〉の組合せである。(フィシュキン&サンスティーン)
そして長期には〈感情の教育〉(ローティ)による〈感情の民主化〉(ギデンズ)が必要となる。
〈感情の劣化〉を被った〈大衆〉を煽動する〈感情の政治〉を潰すためには、短期・長期の戦略を駆使して、〈大衆〉を排除して〈公衆〉を取り戻すことが必要になる。
このような課題設定は、過去20年間、政治学やその周辺の課題となった。

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