岩波文庫に宇野弘蔵「経済原論」が入ったのはおそらく佐藤優が最近よくその著作で言及するからに違いない。アタクシはマルクスの「資本論」に詳しいわけではないが、佐藤優の言うことをよく聞いてみて、宇野弘蔵のマルクス経済学と多くのマルクス主義経済学の違いということについて、理解することができた。
そもそもマルクス自身が社会主義者ではあったので、「資本論」という資本主義経済の仕組みを分析する著作においても、純粋な資本主義経済の分析の部分が多くを占めるには違いないものの、時に「革命家(活動家?)」としての顔が現れて、論理に矛盾を来す面がなくはないという。
宇野弘蔵の「原論」はこの点、資本論の分析の骨子をまとめたものになっている。
佐藤優の「原論」への言及を読んで、アタクシがいちばん納得したのは、恐慌についての考え方である。アタクシの理解してきたマルクス主義では、資本主義経済は商品経済の形勢と流通の発展のなかで、労働力の商品化が資本主義の生産様式を完成させ、さらに資本主義的な市場は好況によって反転しつつも、生産力の相互関係の矛盾に突き当たり、恐慌を引き起こすのだが恐慌は最後に資本主義システムの自己崩壊を導き、やがて社会主義革命に道を開くというものだった。
ところが佐藤によれば、宇野の「原論」においては、恐慌を通じて商品と生産関係と労働の相互矛盾は調整され、資本主義経済は存続するものとなっている。資本主義経済は好況と恐慌を繰り返しつつ、あたかも永久運動を繰り返すのだそうである。
「社会主義の必然性は、社会主義運動の実践自身にあるのであって、資本主義社会の運動法則を解明する経済学が直接に規定しうることではない」ということが「経済原論」の末尾近くに書かれている。
つまり宇野弘蔵のマルクス経済学は、革命的ロマンチシズムとは全く対極になるということであり、佐藤もそれを自身の現実認識の基礎においているのだそうである。
現実の社会主義(共産主義?)は、ソ連社会に見られるように、労働力の商品化の矛盾を解消すると称して、国家の暴力を背景にしたとんでもない監獄型社会を作り出した。つまり革命的ロマン主義のなれの果てが、グローバル資本主義に屈服したのである。
逆に言えば、暴走するグローバル資本主義の現実をリアルに認識するには、宇野弘蔵のマルクス経済学の認識を発展させていうことが有効だと言うことになる。

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