不倫という言葉は昔からあったけれど、今のように誰にでも通じるように使われるようになったのは、1980年代に流行った「金曜日の妻たち」というテレビドラマからだそうである。まあ確かにアタシの子供のころは、浮気としか言わなかったような気がする。
かのテレビドラマの流行によってかどうかは知らないが、人々は好きなもの同士が恋愛感情で結びつき、田園都市線沿線にローンで家を構えて年を取るという結びつきが、実はホントに内から沸き起こる内発的な恋愛感情というよりは、お互いの利害損得を計算したうえでの人生の選択であったことがしだいにはげ落ちて露呈してきたことを、ドラマは明らかにした。
若き日の、内発的な人生の選択を装いながらの、お互いの計算高さのつじつま合わせの競い合いに疲れた中年夫婦に訪れた、遅れてきた内発的恋愛感情の燃え上がりに不倫という名をつけてなんとか統御し、危ない橋を渡りながら、結局新たなつじつま合わせで元の鞘に戻すというのがドラマに表現され、不倫という言葉にロマンティックな色を付けた。
人を元の鞘に戻した力はあるいは世間体かもしれないし、あるいはもっと現実的に、新興住宅地に築いた住宅という不動産にまつわるローンの重みかもしれない。さらにいえば子供の存在もあろうし、さらに細かい道具立てからいえば、80年代にはまだ携帯電話もインターネットもないから、連絡を取り合うには固定電話しかなかった。もちろん胸の内なる本能に従って離婚に踏み切る人々もいたけれど、やはり法律婚したものと「不倫」との間には大きな溝があった。
時代は下り、バブル崩壊から格差社会を経て、世は階級社会になりつつあるとき、法律婚と不倫との間の境目はしだいに崩れつつあるのかもしれない。なぜなら、卒業、就職、結婚、住宅新築といった先のコースが読み取れない人生を送らざるを得ない人が増え、さらにいえば法律婚による結婚がより計算高さを競う場になりつつあるからである。
そうなれば、人は不倫の中に燃え上がる内発性を見がちになり、同時にそれに対する恐れも感じる。だからこそ、芸能人の不倫にネットが炎上する。自分の心の内の欲望は棚に上げて、安直で古びたモラルを持ち出して人を指弾することに奇妙な連帯感を共有できるからである。そして、政治家は安直なモラルに訴える人々の指弾を恐れて、批判の嵐が燃え上がらないうちに身を隠すことを考える。

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