前の衆院補選で当選した町村信孝のムスメムコ氏は、町村姓を名乗らなかったために後継候補として認知されにくかったなどということが面白おかしく記事になっている。
やはり新聞や週刊誌の政治記事でも、「弔い合戦」みたいな話をしながらお話しを展開するのが一種の文章作法になっているようです。
先輩政治家たちからは「姓を変えた方がいい」と忠告された。しかし「義父(町村サン)からは『政治信条を継いでほしい』と言われた」とこれを拒否したなんていうのも「弔い合戦」物語の一環なんでしょうね。
まあそうやって「ものがたり」を回している文章に、「義父からは政治信条をと言われて・・」なんていうショウモナイ若造をたしなめてやろうという下心がのぞいているような感じがしてくる。
この種のプロの文章の書き手がもたらす密かな「感情教育」はバカにならない。
実際はムスメムコ氏の母親が姓を変えることに反対していた、なんていう話が出てくるあたりで、もはや「モダン」は敗北し、「保守反動感情」が勝利する。
ところで、アタシが推測していたようにやはり町村信孝サンは保守の名門のはずだったのに、実際の選挙ではかなり無理をしていたことが明らかになっていた。
致命的だったのは後援会の構成。かなりヒドかったらしい。
中心的な支持者たちはすでにかなり高齢。選挙運動の手足にはならない。
清和会所属のある議員は、後援会の名簿に3000人しか名前がなかったが、あれではうちの市議レベルだとせせら笑ったという。
「町村ブランド」だけで戦ってきたなどといえば聞こえはまだいいけど、1996年に小選挙区制度が導入されたとき、町村サンは当然北海道一区で横道孝弘氏と直接対決するんだと思われていたのに、なぜか5区に逃げたことがあったな。
やはり自分の実力は知っていたのかもしれない。
内務官僚、北海道知事などを務めた父の町村金五の強い地盤を継いだはずが、2009年の衆院選では民主党の小林千代美に約3万票の差を付けられて小選挙区では敗北。危うく比例復活で当選した。
ところがその翌年、民主の小林は選挙違反事件で辞職。このとき民主のこの候補の選挙運動は北海道の日教組が担当していたから、これで町村陣営が「反日教組」の旗印で元気になったようだ。
政治的には半分死にかかった町村信孝サンも、親父が知事時代に撲滅しようとした敵の日教組(もっとも昔の面影は全くないけど)のおかげで復活したのかもしれない。年寄りたちにはこういう若き日の「シンボルの政治」が有効なんだね。
そして名前だけとはいいながら、自民党町村派を率いたことになっている。
まあ今の自民党の派閥なんて、それこそ昔の面影も感じられないほど影が薄いことは言うまでもない。
それでも町村サンとしては、死ぬまで名門政治家家系の「体面」は守ったといえるんかもしれない。
村山政権で社会党の生き血を吸って復活した自民党とも揶揄されたが、町村サンのことを見れば日教組なんぞもどこまで人がいいのかね、などと思ったりして。やはり政治に関わりたいなら、もう少しタヌキかキツネになって欲しいよね。

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