加藤周一が丸山真男の政治論文を広い意味で文学を考えていると言ったが、それはいいことだと思う。文学の領域はどんどん広がるべきだし、狭いハイカルチャーの小説や詩と限定するのは文学概念を貧しくするだけだ。
まあただ、日本だと『火花』の又吉直樹とか、芸人さんが文芸誌に書くような方向に話は行くように思います。ただどこの世界でも文学の枠組みを広げようとしているところがあるようです。
スウェーデン・アカデミーはどこまで深いところまで考えているかはよく分かりません。そもそもノーベル賞の権威というのが、何となく信用できないところがあります。
ただそれでも、ノーベル賞のマスコミ報道は年々過熱している。オリンピック並みの過熱報道は、実態から遊離した評判のゲームになっている気がして、それが権威を疑わせる原因にもなっていなくもない。
(鴻巣友季子ノーベル賞は元々「究極の翻訳文学賞」です。国籍は関係がない。今の情勢を考えると、言語越境している人、場所を越境して書いている人も注目してくれるといいですね。)
(松浦寿輝 ミラン・クンデラはまさに越境の作家。チェコみたいな周縁地域から出てきて、西洋文学を一身に集約する大知識人として活躍している。ああいう人を顕彰するのは、ノーベル賞の本来の姿なのでは。)
(鴻巣 英米の文学界は、ナショナリズムの動きに抗しようとしている。異民族と混交しよう、と。アメリカもずっと翻訳文学が読まれないと言われていたのに、ニューヨークなどを中心に翻訳の出版社が多く出来、書店に置かれています。常に文学は政治経済と逆のことをやるし、やらないとだめだと思う。そういう意味で、言語や国を越境できる作家は気になります。)
(松浦 日本語というのはもともと一種のクレオール(混交)言語でしょう。中国から来た漢字を使っているわけだから。)
(鴻巣 漢文・漢語という大きな普遍言語の周辺にあるローカル言語の一つという位置づけもできますね。)
(松浦 そういう位置を活用して、日本文学は豊かになった。周辺性のエネルギーですね。)
(鴻巣 西欧世界はラテン語文化圏で、ラテン語を一番上等な言語として次にフランス語、そして地方言語になりますが、日本語は漢文にそんなにとりこまれなかった。いいところだけすくい取り、うまく使った。)
ただ日本語という閉ざされた言語に安住している日本のメディア産業は、村上春樹さんをなぜかナショナリスティックに取り扱っているところが気になる。
(松浦 アパートの管理人が個々の部屋を全部開けられるマスターキー、フランス語ではパスパルトゥというのですが、春樹さんの文章ってちょっとそういう感じがする。どこの国語にもつながりうるような、その鍵でどこの国語のドアも開けることができるような。村上さんは日本語の文章で、そういう「マスターキー」の文体を発明した人なんじゃないのかな。)
(鴻巣 翻訳で読んでいる人の方が、深く豊かに読んでいるという気がする。翻訳され、「マスターキー」でいろんなところを開けていくうちに、読みが重層的になっていくのでしょう。)
(松浦 「詩とは翻訳で失われるもののことである」という詩人・フロストの言葉があるけど、春樹さんは逆に、作品の方から「マスターキー」を渡してくれる。)
(鴻巣 今、アメリカで「翻訳文学」として春樹は挙がらないんです。翻訳文学だと思われていない。本当にアメリカの作家だと思っている人もいるかもしれないし、翻訳だとわかっている人でも、翻訳文学というカテゴリーで考えていない気がします。)
(鴻巣 多分、今の村上さんの文体では背負いきれないような、社会性とかテーマ性とかを持ってるんだと思うんですね。それを描ける文体を模索しているのかなと思います。)
(松浦 村上春樹はやはり「ポストモダン」作家で、政治的なイデオロギー性が脱色されたところに真骨頂を示す文学だと思う。そういう意味では『ノルウェイの森』のような素直な恋愛小説の方が、僕は春樹さんの本領だという気がしていて。
社会や歴史を引き受けようという一種のシフトがあったと思うんです。ただ、それが彼の資質に合っていたかどうかは疑問なところがある。だから『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のような作品が、春樹文学の本質なんじゃないかと思います。)
参照
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12615782.html?iref=comtop_list_cul_f02
(文学の概念、広げられるか ノーベル賞を語り合う 作家・松浦寿輝さん、翻訳家・鴻巣友季子さん)
今回のボブディランのノーベル文学賞受賞については、次の評論が適切かも。
「今回のノーベル賞受賞についてディランの歌を「プロテストソング」とする報道が多かったが、本人はデビュー後まもなくその路線は捨てている。というより端からそんなつもりはなかったかも知れず、抵抗の象徴に祭り上げられることにむしろ激しい拒絶と嫌悪を示した。
ディランは常にファンの予想と期待を裏切るような変遷を重ねてきた。民謡であるフォークソングというルーツを引き受ける覚悟から始まり、ビートニク詩人と親交を結び、エレキギターに持ち替えロックを変革し、キリスト教を飲み込み、ゴスペルを経由し、ヒップホップにまで触手を伸ばし……。
その総体は「アメリカの詩と音楽」としか呼びようのないものであり、「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」という授賞理由はそれを踏まえて理解しなければならない。
これは真面目に言うのだけれど、メディアは、村上春樹のところへ行ってボブ・ディランの受賞についてどう思うかぜひとも聞くべきである。最もよく彼を理解している日本人の一人なのだから。」
http://toyokeizai.net/articles/-/140646

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