原武史「滝山コミューン1974」を読み返してみる。この本、かなりネット上ではいろいろな書評が出ている問題作である。どうしてそんなに反響が大きいかといえば、世の中、教師というものに愛憎入り混じる感情を抱いている人がそれだけ多いということなのか。
知らない人のために、どんなことが書いてあるかを簡単に要約しておけば、1970年代初めに東京都東久留米市の滝山団地で小学校時代を送った著者が、全国生活指導研究協議会(全生研)に影響を受けた教員をバックにした左翼全体主義的教育方針に感じた反発を回想し、かつ当時の関係者や同窓生にできうる限り取材して自分の原体験を明らかにしようとした一種のノンフィクションである。
もっとも、私は全生研という団体をよく知らない。この本を読む限り、民主集中制の原理を生活指導に持ち込んだもののようだが、原武史のこの団体に対する認識がすべて正しいのかどうかも、よくは知らない。ただ、彼が当時の学校の雰囲気に違和感を持ち、むしろ学校に隠れて通った大手の進学塾での私立中学受験のための教室にむしろ救いを感じたということだけは確かなことであると分かる。
ネット上のこの本に対する書評を見ると、その人の思想的背景がよく分かってしまう。左翼嫌いの人にすれば、それみたことか、日教組や共産党の左翼全体主義教育の正体見たり、みたいな話になる。日教組の熱心な組合員からは、著者はとんでもない右翼に見える。いまどきこんな本を出すこと自体、前国土交通大臣並みの日教組撲滅運動の一環に見えるかもしれない。全生研についての細かい認識違いを指摘する人もいたようだ。
いや、右にせよ左にせよ、極端な方向に走ることもあるし、最近の教育に関する言説では教師の権力性ということも語られているから、その視点からみれば、著者の小学校の教師は善意ではあっても、少なくとも自分が権力的な地位にあったことに鈍感であったことは否めない、という意見もあった。
もっとも、著者は政治思想史家であるから、自分自身のイデオロギーはともかくとして、自らの抱いた違和感の背景をきちんと分析し、理解しようという態度は貫かれている。
全生研のやり方にいちばん熱心で、自分の担任のクラスを自分の色に染め上げて、全校にその方針を広めようとした片山先生は、林間学校の場で著者の担任であり、片山先生の極端なやり方には批判的だった三浦先生と激論を交わしたことが、著者の取材で明らかになる。
三浦先生は、片山先生よりも年配で、戦時中の体験があるので片山先生の指導方針が集団主義というものの怖さに無自覚であると感じたことが、激論の原因になったのだという。
著者は、三浦先生の世代が戦時下の体験を団塊世代で直接に戦争体験のない片山先生に、自らの全体主義体験を正しく伝えていれば、「滝山コミューン」と著者が読んだ異様な学校の雰囲気は実現はしなかったに違ない、という。
反国家主義、反軍国主義とはいいながら、自分はそれに対抗する先兵だと思い込んだ「純粋」左翼が、実は民主主義をたちまち全体主義に転化させ、自分たちが国家主義・全体主義に一番近い役回りを演じる先兵になってしまうという逆説を、著者は伝えようとしている。
この本は決して分かりにくい本ではないのだが、私はずいぶん前に読んで、もう一度今回通読し、やっとそれなりに意見が言えるようになった。
なぜある種の語りにくさがあるかといえば、私が過ごした某私立の小学校・中学校は日の丸君が代ばかりか、学校長が朝礼でみんなに明治天皇の和歌(御製)を暗唱させるくらいの「右翼」学校であったせいで、いまだに我が母校の「全体主義」教育にアレルギーを感じざるを得ないからであろう。左翼系の教師の押しつけがましさみたいなものは、話には聞くが、感覚的にピンとこないのである。
右にせよ左にせよ、「教育」というものは一歩間違えると人を自分の色に染め上げることの快感に陥らせる傾向があるようだ。片山先生の意向を汲んで、最も優等生を演じた中村美由紀は著者にむかって、実は自分は6年生になって代表児童委員会の委員長になったころ、過敏性大腸炎になり、鼻血が出たり、手の皮がむけたりしてストレス性の症状に苦しんでいたことを告白し、涙を流したという。
まあなんと「教育」は恐ろしいものかと思わずにはいられない。でも多くの人がたやすく議論に熱くなりやすいのもまた「教育」というものか・・・。

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