どうも緑の党などが議論している「脱経済成長」という言葉に違和感を持っている人が多い。
特に非正規労働者や若者で少し知的なことが分る人たちほど、「脱経済成長などを唱える人たちは十分モノを持っているから、もうこれ以上はいらないというんだろう。俺たちは、経済成長が環境に良かろうが悪かろうが、成長しなければ仕事にありつけないんだ」という反論をしてくる。
まあ高度経済成長時代に都留重人先生なども「量的成長から質的成長への転換」などという表現を使っていた。
自動車をやめれば経済成長としてはマイナスだが、自動車が増えてぜんそく患者が増えれば薬が売れてGDP(そのころはGNPだった)が増える。そんな風な話だった。
今流に言えば、LED電球を使えばエネルギーの使用量が減るから電気の消費量が減るという意味ではマイナス経済成長になるが、「ものをたくさん消費する経済から人類の生活の質的向上をめざす」というような表現をするのなら、確かにそれは正しいのだろう。
だが今の社会や国のしくみは、経済成長を前提にしているところがあるから、そう簡単に明日から量的成長から質的成長に転換するというわけにもいかない。若い人は、そういうことを難しい理屈でなく感じている。
経済は消費というが、無駄な消費から効率的な消費社会への転換で、一見したらマイナスのように見える量的減少社会でも、質的な成長を遂げることで、仕事も増えるし、ひとびとの生活を豊かにすることはできるともいえるのだが、やはり若い人ほど懐疑的なのではないか。
実はワタクシも経済を量から質へと転換するということには大いに賛成なのですが、それを低成長でも幸せな社会、などというと反発する人が多い。しかも、それは成長を所与のモノと考えるエコノミストだけではないところが問題だ。
資本主義社会では、投資家は投資した資本に対して利潤が出なければ投資はしない。ただ、先進国は総じて利潤率が低い経済になってしまっっている。そこで国内に投資先がないといって、資本をグローバルに移動させて、利ざやが稼げる場所を資本は求めて世界をさまよっている。
そう考えると、どんなにアベノミクスだとかいって期待を膨らませる手を取っても、もともとこれからの日本で経済成長は期待はできないのではないか。そもそも労働人口が少なくなる超高齢化社会になるというそれだけで、成長を引き下げる要因になるというエコノミストもいるくらいだ。だからわざわざ緑の党が脱成長を目指すなどと言わなくても、脱成長は実現してしまうのではないか。
わざわざ反発の多い脱成長などという言葉を政治スローガンにすることはない。それよりも、個々の政策において、量的成長を前提にしたシステムを質的に高い経済活動に組み替える提案を行うことが、環境政党には望ましいのではないか。

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