だまされた人と、だました人がいれば、確かにだました人が悪いだろう。
しかし、敗戦直後の伊丹万作の言葉じゃないが、だまされたということで平気でいられる人は、今後もまただまされる。現在すでに別のうそによってだまされ始めているにちがいない、という。
おそらく、だまされやすい人は、疑うことを知らない、いい人なのかもしれない。疑いだしたらきりがないし、他人との摩擦も起きやすい。いっそ、少し疑わしいな、おかしいなと感じても、そんなことは忘れてひと思いに信じてしまったほうが楽だから。
めんどうくさいのは、正義の戦争だ、聖戦だという話を、初めは少し疑わしく思っていたのに、「みんな」がそういうならと自分も信じ、それを率先して語り、戦争に協力し、挙げ句の果ては信じようとしない「非国民」を非難することまでやってしまった者がいて、その人がひとたび敗戦を迎えると「自分は軍部にだまされただけだ」と言って責任回避に走ることが多いことだ。
軍国主義の時代のイヤなところは、そういう自分が最初は疑わしいと思いながら信じ込んだウソを、今度は他人にも押しつけようとすることがあちこちで頻発することだろう。
もうこれからはだまされない人間になろうといっても、だまされない人間になることはよく考えれば難しい。
正義の戦争だ、聖戦だという話を疑わしいなと思うことはあるにしても、一個人がその疑いを証明するほどの知識をすぐに手にできるかどうか。おそらく難しいだろう。疑わしい、しかしそれをはっきりと間違いだと主張できるほどの知識はない。
敗戦直後の日本では、だまされないために強い「主体性」を持たなければならないという議論がされた。つまり、他者からの働きかけによって動かされる「客体」ではなく、自らの価値観と判断を持って「主体的」に生きよ、というのである。
確かに、世の中の流れに抗して、強い自分を持って生きる、「主体性」という言葉は魅力的かもしれない。
だが、「主体性」はどのようにすれば自分の中に育つのか。確固とした判断の基準はどうすれば得られるのか。そう考えると、またまた袋小路に入る。
多くの戦争体験記を読んだり聞いたりすれば、案外に日本とアメリカの経済力の差を知っていた人が多いのに驚く。じゃあなんでそんな無謀な戦争に突入したんですか?いや、内心忸怩たる思いはあったが、世の中の空気には逆らえなかった・・・。
ああつまり、主体性が乏しかったということですか。そうすると、様々な企業不祥事から原発事故にいたるまで、内心おかしいなと思いながら、社内の空気には逆らえなかったというのは、日本人のメンタリティーでどうしようもないことなんでしょうか。
どうも、主体性に話を還元するのもへんだなと感じるが・・・。

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