アメリカは国ができる前から大学が作られた。
北米大陸に入植したピューリタンたちは、牧師が死に絶えて、新しい牧師を本国から雇い入れなければならなくなることを恐れたらしい。
1636年にハーバード大学を創設し、イェール大学やプリンストン大学がこれに続いたのは、ひとえに牧師の養成のためだった。それらの大学が世俗化してしまうと、また新たな大学を作る。ハーバード、イェール、プリンストンは、合衆国建国以前に設立された。
学位をもつ牧師たちは、難解で長時間に及ぶ説教をする。
教会は、新世界で体制の主要な一角を担うようになる。
19世紀には、アメリカはかなりの人が大学教育を受けていた。
教会の体制化、人口の増大、印刷の普及によるメディアの拡大によって、信仰復興運動が起こる。
平均的な教育水準の上昇は、過度な知性主義が権威や権力と結びつくことに対する反発を生む。こういう背景があって、アメリカの「反知性主義」が独自の発展を遂げる。
反知性主義はしばしば政治とも連動していく。
じゃあ日本の反知性主義は?そこには宗教的な背景はなさそうだ。
あるとすれば、1960年代の大学のマスプロ化、大衆化と関係がありそうだ。
そもそも日本人は教育熱心だという自己像がある反面、高等教育に投下される国家予算は先進国の中で最低に近いとも言う。昨今の、国立大学における文系学部の廃止の提言のようなものが文科省から出されたことから見ても、そもそも国家は学問を尊重しているようでいて、実は奉っていただけだったような気もする。
企業は新卒者に大学で何を学んだかに関してこれまでは無頓着だった。必要な職業教育は企業内のon the job trainningでまかなうから良いという態度だった。ただ、選別のための「地頭」の良さを計るために、大学名のブランドを利用してきたにすぎない。
ところが企業が自前の社内教育を削減するということになって、にわかに文科省がそれに対応するふりをしたのが、文系学部廃止の提案だったのであろう。
やはりそうなると、日本では「反・知性主義」といいながら、「反」を名乗れるほどの実態がそもそもあったのかが疑わしくなってくる。
学問の世界は実は怪しかった。では職業教育は。アタシはそれも中味スカスカだったような気がしないでもないのだが・・・。

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